蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

落としたネギと脊髄反射

ギを刻んでいて欠片を落としてしまったとき「あ、やばい、早く拾わなきゃ、犬が来る前に」と一瞬、頭の隅で思う。

ほとんど脊髄反射的に反応する。

犬は2年半も前に死んだというのに。

 

ときどき、いや、頻繁に、死んだ犬たちの話を恋人にする。

いま実家にいる猫たちと同じくらいの頻度で話題にあげる。

 

ネギを落としたらすぐに拾わなくちゃいけなかった。

うちの犬たちはたいへん卑しくて、料理中は常に足元に待機しており、野菜の欠片が落とされるのを注意深く見張っている。まるで厳しい税関のような目つきで(ただしヨダレをずっと垂らして)。

犬は残念ながらネギが毒だから、ほかの落ちた野菜は食べてもいいけどネギだけは食べさせてはならない。

ネギを落としたらまず犬を制止し、拾ったネギをすぐさま捨てるのだ。それはものの2秒くらいの出来事なのだけど、ピリッと空気が張りつめて緊張が走る。

あんまりにも目障りだったから、台所の入り口に腰ほどの高さの扉を設置したのだが、犬が扉に突進して幾度も破壊を試み、ドアを叩く借金取りみたいになってしまって、その煩さに扉はあまり使わなくなった。

そういうわけでおれが子どもの頃から「ネギは素早く拾う」習慣がついていたから、今でもネギを落とすとサッと緊張する。

 

そんな話を恋人にする。

 

 

「あなたの犬や猫の話を聞いていると、わたしも飼いたくなっちゃう」

恋人にそう言われると、なんだか誇らしい気持ちになる。

 

犬は散歩もしなきゃいけないし、粗相もするし、何かと面倒なことも多く、晩年は看病と介護に疲れたけど、あの時から今までずっと、すべてが愛しい。

もちろん寂しいけど、思い出を笑って話せるのは良いことだろう。泣かされたことよりも笑わされたことのほうが数千倍も多かったのだから、思い出でもおかしくて幸せなのは当然だ。

そんな風に恋人に話して、笑って、幸せな気持ちになって、そして恋人に見えないところで、ほんの少し涙がこぼれそうになるのをこらえる。

たった一粒だけ零す日もあるかもしれない。

 

でも、これでいいと思う。

 

死んでしまったけど、犬たちはいなくなったわけじゃないのだ。

犬がいたことで身についた体の反応とか、世界の見方とか、思い出話に花を咲かせたときに揺さぶられる感情の中で、犬たちは今もこれからも、ハッハッと軽快に息づいている。足元でヨダレを垂らしている。