シュウマイは家で作るものではなく、買って食べるものだと思い込んでいた。なぜなら我が家には蒸し器もないし、シュウマイの包み方もよくわからなかったから。
あれは専門的な道具と技術を要する食べ物だと思い込んでいた。焼売って書くくせに蒸すんだもん。
でも、作ろうと思えば作れるものですね。
料理本に「蒸し器が無くても作れるシュウマイ」のレシピがあり、ちょうど材料も揃っていたので(しかも簡単そうだったので)昨日の夜に作ってみた。
大した出来栄えではなかったので写真は無いけれど、想像していた以上に簡単にできたし、家で作る分には満足な美味しさだった。
それにしても、こういったやや特殊な料理を作って毎回思うのは、売られてる商品ってスゲーんだな、ってことだ。
崎陽軒のぎゅっと肉が詰まったシュウマイってスゲーんだな。駅弁だから冷めた状態で食べるのに、冷めてても美味いってどうなってるんだ。
昨今は冷凍食品のシュウマイもかなり美味しい。
肉汁がジュワッと溢れて口の中で優しくほぐれていくのに、ずっしりと台形型の形を維持していて、いったいどういう仕組みなのだろう。
こういった「工夫」の美味しさって、「願い」の結実だと思ったら尊くなってきた。
高級なレストランで提供されるもてなしの数々や高価な食器、意匠を凝らした盛り付け、こだわった材料、一流の腕前には「お客様に素晴らしいひと時をご提供しよう」という意志こもっていて、その願いを結実させるためにすべての行動と結果を作り出している。もちろん私は高級レストランに行ったことが無いのでわからないが、きっとそうだ。
こういったもてなしの心が高級店を高級たらしめている理由のひとつだけど、でもその願いって、駅弁や冷凍食品にもあるものなのだ。
どうすれば冷めていても美味しく食べられるか、どうしたら形を崩さないか、どうしたら冷凍していてもジューシーに仕上げられるのか、そういった試行錯誤はすべて「消費者に美味しさを届けたい」という願いに基づいていて、その結実として、商品となって売られているのだ。無論、他社と差別化を図る戦略面もあるし、その側面の方が大きいかもしれない。
商品は無事に消費者に届き、食べると(ささいなものかもしれないが)たしかに心を動かす瞬間を生み出す。
これってなんだかすごく尊い営みだ。
料理って、誰かのために料理をすることって、人間らしい美しい営みなんだと気付いた。
自分で料理をするときもこの「願い」ってある。
恋人と食べる料理には思いを込める。ささいなことだけど、スジを取り除くとか、アクをちゃんととるとか、そういう部分で。美味しく食べられるように、いい気分になるように。
誰かのためを想って作る料理はほとんど「祈り」なのだなぁ(詠嘆)。