日曜の夜はよく「一日が79時間あったらな」と夢想する。
79という数字に意味はなく、都度55時間だったり、98時間だったり、61時間だったりする。とにかく24時間よりも大きい数字だ。
一日が79時間だったら、もっとたくさん寝て、本を一日2冊も3冊も読んで、凝った料理をたくさん作って、ゲームして、やりたいことが全部できるのに。
青梅のヘタを取って梅酒を仕込む時間もあったろう。長大な小説を読み終わる時間もあったろう。小説を書く時間もあったろう。今日できなかったことをできる時間があったろう。
そして、休みを長く味わえただろう。
一日が79時間あれば、休日のみならず平日だって有利なことがたくさんある。
仕事から帰ったらゆっくり食事を作り、ゆっくり風呂に入り、小説を読んで小説を書き、ブログを書き(もっと中身があって有益で面白おかしい記事になるに決まっている)、恋人と心ゆくまで抱き合える。仕事終わりの時間をこれでもかと有効活用できる。
現実の24時間では、家に帰ったら急いで食事を作ってシャワーを10分で済ませ、小説を読む気力などなく、もちろん小説を書く体力も無く、ブログを急いでしたためて(サンゴの骨みたいに中身がなく白くて硬い文章だ)、恋人に投げやりな返事をして仲たがいして眠るのだ。もちろん悪夢しか見ない。
こんな人生でいいわけがない。
土日を満喫したい。
「あ~なんで土日はこんなにもはやく終わっちまうんだろうな」と毎週毎週思いたくない。これが毎週、死ぬまで続くと思うと背中がぞっと寒くなる。
すべては一日が79時間になれば解決するものと思われる。
私は79時間を有効活用して大大富豪になりたい。大大大富豪になりたい。
一日は79時間であるべきなのだ。
だがこの夢想は、毎回ひとつの帰結に終わる。
「一日が79時間あったら、この国は『じゃあ一日もっと長く働けるな』って思考になって、結局60時間くらい猛烈に働かせるんだろうな。税金もむちゃくちゃ搾取して。そういう国だ」
そういう国だよな。国っつーか、思想が。絶望だよまったく。
根源的な希望は絶望からしか生まれない。(──ジョルジュ・オースキン)
人は愛や夢ではなく、絶望のみによって本質的につながりを保てる生き物である。(──バージランド・グリセン)
この帰結により、なんだかんだ24時間でよかったな、と思えるのであった。(まる)