蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

使う筋肉が違うみたいに

説は書かないと小説にならない、というのが気に食わない。書いていない方が書いてる気分になってくる。不思議だ。

それは試験前にまったく勉強していないにも関わらず「今日の試験イケる気がする」と無根拠の自信が漲るのと同じことで、書いていない方が「おれは面白い小説を書ける」と現実を直視しないで思い込めて、得意の想像を発揮してさも自分は時代の寵児かの如き物書きの才に恵まれた稀代の人物であると錯覚するが、フォルダーを開いてみれば完成した小説なんてひとつもない。

 

小説は書かないと小説にならないらしい。

 

平日は仕事で気分が重くてとても書く気力がなく、また、些末なやることも多くて物を書く以外にも多くの犠牲を払っている。暇な学生のうちにやっておくべきことはたくさんあったと今では思う。これは言い訳です。ありがとう。

うだうだ言っても、しかしながら小説を書かないと自分の心は救われない気がするし、なんか形にしたいよな、という気分が募って、最近はちょくちょく筆をとっている。

書きはじめるとまぁ言葉が出てこないこと。

このブログは脊髄反射で素直に書けるのに、小説になると一文一文に時間がかかり、しかもその出来が不味い。読み返したくもない。

 

それにしてもなぜ、同じ文章でもこう書く速度が違うのだろう。

小説、詩、エッセイ、ブログ、レポート、議事録、メール、感想文……

書くときに使う脳みその部分が違うのではないか。

水泳選手が速く走れないのと同じで、使う筋肉、使う脳みそが違うから書くスピードが違うのだ。

 

でもこれは訓練すれば、慣れれば、スピーディになるものでもない。

長大な詩を5分で仕上げる人はいないし、ビジネスメールに3日使う人もいないのだから。それに人それぞれ向き不向きはある。

でも鍛えなきゃ速く走れるようにならないのは確かだ。

 

そもそもブログで嘘八百並べ立てるようにつらつら書ける方がどうかしているのかもしれない。誰かに話すよりも楽だ。なんなんだいったい。ただのコミュ障じゃないか。

 

こんなふうに小説も書けたらいいのに。こんな風には書きたくないけど。