蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

美の基準を変えたい

生時代に受けた文化人類学の講義で「美」の文化について話があった。

私たちが人に対して抱く「美しい」という感情は、実は生来のものではなく文化的な規定により後天的に獲得されたものであるというのだ。

現代の日本の女性であれば、緩急が付きながらも細めのスタイルで目鼻立ちがくっきり整っている人が美しいとされ、男性だったら身長が高くて筋肉が主張しすぎないほどにつき、骨格が逞しく、もちろん目鼻立ちがくっきり整っている人が美しいとされている。(個人の好みではなく、一般的な「美人」のイメージ像の話をしている)

でもこれは文化によってイメージ付けされた「美人」に過ぎない。

たとえばアフリカのある部族ではくちびるを切ってできるだけ大きな皿を入れられる人が「美人」だし、中国の首長族では首が長い方が美人とされている。

日本も昔はうりざね顔の平安美人がもてはやされていたし、中国では「纏足」という痛ましい文化があった。太っている方が美しいとされる文化圏もある。

このように場所や時代によって「美しさ」の基準も価値観も異なるので、価値基準が変則的な「外見」では人の本当の美しさは測れるものではなく、普遍的な教養を身につけ、考えられる頭を持った知性的で逞しい人間こそが、本質的に「美しい」と言えるのだ。

知的美人を目指そう、と先生は言った。(そのために文化人類学こそが最適な学問であるのでみんな講義に出よう、先生の本を買おう、とも言った)

 

ところで動物の求愛行動も、種によって特有の「アピール」があって、その魅力の度合いで生存競争を競っている点から、人間の「美」に近いものがあるのでは、と思う。むしろ人間の文化が規定する「美」こそが動物の求愛行動に近いのではないか。

鹿は角が大きいほうがいいし、ライオンは鬣(たてがみ)が堂々としている方が良いとされる。猿はお尻が大きいのがいいかもしれない。クジャクは美しい飾り羽で魅力を競う。

これらは環境や生存競争によって獲得され、残ってきた「戦略」だ。

この動物が持つ美の基準も、人間と同じように環境や後天的な植え付けによって変化させることが可能なのではないだろうか?

 

と、論ずる前にもう少し動物の「アピール」と人間の「美」が同質のものであることを示さなければならないのだが、ここまでうろ覚えの知識とちょっと考えたことを書いてるだけなので、調べる気力もない。

人間が発情する生物的なしくみとして、根っこのところに「大きいお尻が好き」があるとしたら(個人の好みの話ではない)、動物たちも種ごとに根っこのところに「大きい鬣が好き」とか「大きい角が好き」があるかもしれず、それが葉となって結実し肉体に現れただけであったのだとしたら、それは文化とは異なる文脈なので話は変わってくる。

だから、人間の「美」の感覚が動物にも存在することをまずは証明しなければならない。

とはいえ25歳社会人、気力なし。

 

でもさ、クジャクが「できるだけしょぼい羽を持つ方がモテる」と植え付けられたらちょっと面白いじゃありませんか?

って小説のネタになりそうなところでとどめておこう。