アマプラで『ランボー』を観た。
『ランボー』ってめちゃくちゃ有名な映画だけど実はずっと観たことが無くて、また内容についても映画ポスター以外の情報はほとんどなにも知らなかった。
このポスターからいったいなにを読み取れるだろう?
・悪天候である
・暑苦しそうな男が登場する
・武器で戦う
予想するに、ベトナム戦争のゲリラ戦の話だろう。シンプルに戦争の話。卑劣なゲリラたちと戦って、ランボー(主人公の名前と思われる)は命からがら逃げのびる。それだけの話。たぶんだけど『プレデター』と似たような流れになると思われる。
『ランボー2』以降続編もあるようだが、おそらくそれは戦地が変わるというだけの話だろう。アフガニスタンとかメキシコとか。
そのような予想を立てて、ひとまず『ランボー』を観賞した。
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情報に溢れた時代において『ランボー』の知識を一切入れずにこの映画を観れて本当によかった。
全然、というほどではないけれど、予想とは異なっていた。
ベトナム戦争は間接的に、しかしながら直接的にストーリーに関わっていたし、ランボーは森の中、悪天候の中、ゲリラ戦をする。
だけど物語の核はただ戦うことではなかった。
寡黙なランボーが終盤、涙を流して震えながら堰を切ったように語るところは私も涙なしには見られなかった。あのシーンでランボーの説得に挑んだトラウトマン大佐(ランボーのかつての上司)が涙をこらえて唇を震わせるのだが、その表情に含まれる多くの感情、悔しさとか罪とか同情とか責任とか、その表情に私の感情は大いに揺さぶられた。
観るべきだ。みんな。
アクションシーンも申し分なく迫力がある。
しだいに「なんでこんなことになってるんだっけ」って思わなくもなかったし「ランボーやりすぎだろ」と怖くもなったけど、スタローンのアクションが好きなら満足できるだろう。
こういうアクション映画の主人公はヒーローとして描かれ人々を脅威から救う役目を担うものだが、ランボーは違う。人々を恐怖に陥れ、どちらかと言えばプレデター寄りの人物で、そして現在のヒーローではなく「かつてのヒーロー」なのだ。
そこが新しいというか、ともすれば『ジョーカー』に通ずる部分があって、これはアクション映画の皮をかぶった社会派だと思った。かなり新鮮な気持ちになって観れた。
ランボーの怒りは当時のアメリカ社会に渦巻いていた多くのランボーのような犠牲者たちの、世論に抹殺された叫びだったのだろう。
画面の向こうから状況を把握して批判を浴びせる私たちは、しかしながら当事者意識が低くて、画面の向こうの現実で実際に血を浴びたり酷い目に遭っている人たちのリアルな苦しみにはひどく鈍感であり、ともすれば一方的な言葉で当事者たちを批判することもある。あるいは、当事者意識の低い言葉で被害者の声を代弁する。
それはかなり暴力的なことなのだ。
私たちは状況を把握しようとしているだけで、実のところなにもわかってはいない。
災害にしてもそうだし、戦争にしてもそうだ。
どちらの事情もよくわからずにインターネットの拡声器を使ってほとんど自己満足に近い言葉を吐き出すのはどうなのだろう。
無責任な言葉が増えている。こうしてブログを書いている私にしてもそうかもしれない。
『ランボー』を観てそんなことを思った。