蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

オッペンハイマー

『オッペンハイマー』を見てきた。

クリストファー・ノーラン監督の作品はいつだって信頼しているし、その期待を裏切らない作品だったと思う。

断片を繋ぎ合わせたようなノーラン節全開の会話で状況を呑み込むのに時間がかかった。ワンカットごとに時間軸が移動する展開には『メメント』のときの技法も見られたし、おお、ノーランだ。という感想が常にスクリーンに映し出される。

監督の作品を映画館で見るのは初めてだったのでまずその点において感慨深かった。

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内容的は予告通りに重いもので、笑えるシーンといえば「一緒に揺れたい」という会話からの濡れ場&行為の途中でサンスクリット語を読むところくらい。なんだそれ。

個人の感想として、これが日本で公開延期されていたのは、配給会社の及び腰だったのでは、とも思ったし、その配慮もわからなくもないな、という感じだった。

原爆を作った人間の英雄譚ではないし、かといって断罪の映画でもなく、問いかけの映画だったように思う。

映画の冒頭で、人間に火を与えたプロメテウスのギリシャ神話が引用される。プロメテウスは神々から奪った火を人間に与えた罰で、岩に縛り付けられて永遠に拷問されるのだ。

オッペンハイマーは原爆を作ったことにより、人類に最悪の「火」を与えた。

広島と長崎の惨劇、冷戦の始まり、水爆の開発……。列強各国は当然のように核弾頭を所有し、ボタンひとつで世界を滅亡させることができる。

私たちの歴史は原爆開発の事実をどのように受け止め、彼への評価をどうすべきなのか?

まだその過程にあるわけであって、これから歴史に起こる「行動」がその評価を決定付ける。

ロスアラモスの大地を誇るか、呪うか。

見る人の倫理観や、歴史観や、感情によってこの映画への評価はそれぞれに異なるものだろう。

もし私自身が原爆に焼かれた人だったら、オッペンハイマーの栄光も罪悪感も政治劇も「知るか」と吐き捨てるだろう。なにも知らない異国の子どもだったら、原爆が成功してよかったと喜んだかもしれない。

私は日本人で、戦争を知識でしか知らない。その立場があるからこそ中立的には見れないし、どの立場であったとしても、誰しもがそうなる映画なのではないだろうか。

歴史への評価はいつだって「揺らぎ」があるから。

だから、さっさと公開して、論争を巻き起こせばよかったと思う。

 

原爆投下後、英雄として祭り上げられた彼の虚無と罪悪感を描き出したスピーチのシーンは、圧巻だった。

喜び、涙を流し、吐く人や夫婦で抱き合って成功を喜ぶ人たちを目にしながら、罪の意識で冷ややかに押し潰されていくオッペンハイマー。歓声なんて聞こえなくて、自分の言葉が嘘みたいに響く。歓喜に沸く人々のなかを、人の形をした灰を踏んで歩く。あそこが撮りたかったシーンなのだろうなと思えるくらいよかった。

 

上映後、すごく頭が痛くなったので、帰って眠った。