蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

トトロのエンディング大好き!!

トロ、おもしろいね〜。

となりのトトロ』ってタイトルが秀逸、まず。「と」の音で前韻を踏んでるので言葉の舌触りがいい。

映画タイトルを決めるにあたって「トトロ」はまぁ入れるとして、私は「となりの」を付け加えられる自信がない。「トトロの森」みたいな無難な名前をつけちゃう気がするのに、製作陣は「となりの」を付けたその凄さよ。「となりの」以外にはあり得ないと思わせる説得力がある。枕詞で言うところの「母」に導く「垂乳根の」、「神」に導く「ちはやぶる」、そして「トトロ」に導く枕詞は「となりの」で決まりだ。

 

『トトロ』のなにが好きって、エンディングがいちばん好きだ。

無事にメイが帰ってきて、おばあちゃんが駆け寄って抱きしめて涙を流すところも当然泣けるし、サツキとカンタが大人らしくなって言葉を交わしているのも成長したな〜ってら感じで良い。

でもなによりも、エンディングでは物語の「その後」が描かれているのが素晴らしい。

お母さんが退院し、家族みんなで仲良く過ごす。季節は作中の夏から秋へ移り、着る服も変わる。冬になりトトロの雪だるまを作る。

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サツキとメイの日々は物語の後も続いていくんだよ、って語るかのようなエンディングだ。

物語は終わってもサツキとメイは生活を続け、季節は移ろう。そう、それを見ている私たちの世界と同じように時間は進むのだ。

映画を見終わった私たちにも「その後」があるのと同じでサツキとメイにも「その後」がある、ということを示して物語が真に私たちの現実にまで拡張する。

そうしてようやく『となりのトトロ』は完成するのである。

トトロは私たちのそばにいるかもしれない。子どもにしか会えない、奇跡の時間の中で。

そう思わせる説得力を持たせると同時に、映画が終わってもなお子どもたち(と大人にももしかしたら)へ物語への没入感を与える。

そうしてまた近いうちに『トトロ』を観るわけですね、子どもたちは。

これを繰り返すとどうなるか?

常に「トトロがいる世界」が子どもたちの脳内に作られてトトロの存在はもはや疑いようのないものであり、会ったことはなくてもその不在こそがたしかにどこかにいるという存在への確信に変わっていくのだ。

根拠?

ここにいますよ。

これを書いてる私がそうです。

今年27にもなろうかという ますらを一匹、日本生まれ日本育ちの大和漢だけど、ぜんぜん今もトトロ信じてるね。

大人になってトトロに会えなくなっちゃったけど、むしろ安心してるくらいだ。だって、会えないのだから「トトロがいない」のを「証明できない」のだ。無茶苦茶なように見えるか?無茶苦茶だよ。

でも悪魔の証明は無理でしょう?

私の中でトトロの存在は確信を増している、一度も会ったことないからこそ。

子どもは会えるチャンスがあっていいよな〜。

でもトトロって「そのうち会える」わけじゃないんだよな。「そのうち会えなくなる」もんなんだよな。

それがすごく切ない。

私は映画の中になにか大切なものを置いてきたような気がしていて、『トトロ』を見るたびに、エンディングで作品世界が拡張されるたびに、その大切なものがもう二度と手に入らないのだとわかってしまって、ノスタルジーな夏の気分に浸るのだ。

トトロには会えない。ずっとそばにいるのに。