恋人と中学生の頃にどの合唱曲を歌ったかで盛り上がった。
当時はみんなで歌うという行為も上滑りしたような歌詞も全部が嫌いだったけど、今あらためて聴いてみると良曲が多く、なによりも歌詞に沁みるものがあって二人でいくつも曲を聴いた。
合唱曲の歌詞はなんだか綺麗事というか、いかにも文部科学省推薦、みたいな響きのものばかりで当時はひどく辟易したものだ。
希望だとか、明日は輝いてるとか、友との絆が云々とか、実際に歌っている側はそんなこと思ってもいないのに歌わされている歪み、を抱き、さも歌っている私たちが毎日を希望持って生きているみたいに見せたいような教師の意図を感じて不気味でならなかった。今思えばそんな意図なんてきっとなかったと思う。反抗期だったのだ。
だからどちらかと言うと如何様にも解釈できる自然描写を謳った曲が好みだった。単に自然の描写でもあり、描写は人間の比喩にも解釈でき、誰もが満足できる折り合いのついた曲だと自分の中で安心できた。反抗期だが争いは望んでいなかったのである。
森山直太朗の「虹」という合唱曲がある。
私はこれを歌ってはいないが、好きな曲のひとつだ。
好きな曲なんだけど、さらっと歌っているわりにはかなり難解な歌詞だ。
喜びと悲しみの間に 束の間という時があり
色のない世界 不確かな物を壊れないように隠し持っている
ここなんてかなり漠然としている。「虹」という曲なのに「色のない世界」と歌うのはどういうことなんだろう。
ただ終りの方では「虹」をそれとして歌ってもいる。
僕らの喜びを誰かが悲しみと呼んだ
風に揺れるブランコ
僕らの悲しみを誰かが喜びと呼んだ
明日へと続く不安気な空に色鮮やかな虹が架かっている
ひととおり考察をすすめてみて気付いたことがある。
この曲は、神である。
ピアノがとにかく美しいのも含めてメロディがキャッチ―で、物哀しくも爽やか。まるでもう戻らないあの頃のことをほろ苦さと共に思い出すようでもあるし、子どもたちが憂いながらも明日に光を見ているようでもある。
歌詞もそういうことなんじゃないかと思う。
学生の当時は憂鬱も多く、言葉にできない感情を抱えて鬱屈としていた。世界が色も無く見えた時だってある。鮮やかさに欠けた希望のない世界。空々しい歌が「希望」とか「絆」とか歌うのが滑っているように感じていた。言葉にできない感情を表に出してしまったら世界に壊されてしまうんじゃないかと怯えていた。
でも今、そのころのことを思い出すと、あの鬱屈と斜に構えた物事の見方には懐かしさすら感じ、あの時があったからこそ今があるのだと愛しさを抱ける。
あの頃には戻れない、その悲しみと喜びを心に残して。
誰かが「僕ら」に何を言おうと当時の「僕ら」には関係なく、そしてやはり時間は為すがままに過ぎていく。その儚さを知らない当時と、その儚さを知っている今。
大人になるということとはどういうことかを歌っている。
「虹」とはかけがえのない時間のことだ。
近付けば見えなくなってしまうし、いつもそこに架かっているわけではない、脆く、儚い、記憶のことだ。
ふつう「虹」といえばきらびやかで美しいものの象徴として書きそうなものなのに、このようにどちらかといえばマイナスのイメージを持たせたのは、「煌めく日々」に「指を立てる」歌詞の登場人物に寄り添っているような気がしてならない。
また「多様さ」の意味もあると解釈できる。
私は大人になってからあの頃の苦さを、まだ苦みを忘れないままに愛しく抱きしめられるようになった。
だからこの歌詞が漠然と何を言いたいのかわかる。
でも中学生にはわからないだろう。
だけど、この歌を歌った子たちが大人になってキャッチ―なメロディと美しいピアノと共に歌詞の一節を思い出し「ああ、そういうことだったのかな」とひそやかな感動を覚えさせたとき、この歌はまた光り出す。
それだけの強度を備えた名曲だ。
僕らの出会いを誰かが別れと呼んでも
徒に時は流れていった 君と僕に光を残して
(参考歌詞サイト)