蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

悪役の華~悪のカリスマについて考える~

『ジョジョ』のラスボスは根源的な悪を司るキャラクター像で、なにかしらそれぞれにテーマが与えられている。

たとえば1部と3部のラスボス・DIOは傲慢、4部の吉良吉影は自己中、5部のディアボロは臆病、6部のプッチは独善、と個人的にはテーマを感じる。

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(ジョジョ3部のラスボス・DIO)

他人を陥れたり利用したり世界を恐怖に包み込むような悪者ではあるのだけど、それぞれの性格のテーマの中には自分にも重なる部分があって、そこが読者とある意味の共感性をもって受け入れられるため、魅力的な敵キャラクターに仕上がっているのだろう。

むしろ主人公たちの正義の心の方が読者から離れている。だが、離れているからこそヒーローとしての憧れが生まれるのだろう。

読者からかけ離れた「善」の心は憧れを生み、かけ離れた「悪」の心は理解ができない不気味さを生む。それはそれで魅力的ではある。

また、悪いやつなりに人類を救済しようとしていたり、ただ静かに暮らしたいだけだったり、悪いことをするのにも理由があるのだが、なにか性根の部分で悪いやつであることには変わりなく、荒木先生の描く悪者像はブレないなぁと思う。

とくにDIOはめちゃくちゃ悪者だけど目的とかそのへんがふわふわしていて、こいつはただ承認欲求の為だけに世界を掌握するしかなかった(世界を掌握することで自分に振り向かせたかった)のかと思いきや、やはり性根が腐っている描写もたくさんあって、悪のカリスマ然としている。

 

鬼滅の刃』の鬼たちには事情、つまり悪になってしまったバックグラウンドがある。

鬼になってしまった理由は「なんとなく」ではなくて、悲しい過去があり、それを利用された恨みがあり、長い生涯の中で忘れ憎しみにかき消された幸せがあり、人間が誰しも抱えている負の感情の増大によって鬼になってしまったのだ(その負の感情を利用されて鬼にされてしまったのだ)。

主人公たちと鬼たちのバックグラウンドの違いは、悲しみの大きさで言えばそこまで差がないのだけど(家族をぶっ殺されている者多数)、大きな違いは「人間に恨みを持つかどうか」であると思う。

そして鬼になるかどうかは、恨みを晴らす手段として選択してしまった心の弱さなのだ。

鬼たちには同情せざるを得ない部分も多く、その事情も踏まえて炭治郎は涙が出るほど優しい。罪を憎んで人を憎まず、とはどういうことなのかこの作品を読めばわかるはずだ。

そして罪を憎んで人を憎まないでいたからこそ、ラスボス鬼舞辻無惨の「悪」が引き立っている。

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(炭治郎と鬼舞辻無惨)

無惨様はDIOによく似ている。その傲慢さ、惨めな気高さ、一方で含むみみしさ、人間の憎悪を集約したような絶対的な「悪」として描かれていて、これまで「事情」を持っていた悪者たちへのアンチテーゼのように「生まれながらにしての悪」をそこに体現させており、ゆえに誰よりも孤独なキャラクターに仕上がっている。

同情の余地もない悪役は昨今珍しい気がした。

 

「悪は絶対的に悪である」と「悪にも事情はある」この二つは相いれず、悪の存在理由を分かつ。なんの事情もなく人を殺す快楽殺人者と復讐のために一族を皆殺しにした博労とでは物語性が違うのだ。

ドラゴンボール』の敵はほとんどが「悪は絶対的な悪」タイプだ。

破壊するために生まれ、大した理由もなく宇宙を掌握しようとするシンプルさ。これはこれでわかりやすくて良いし、その純粋さに裏表がなくてなぜか好感が持てる。ちなみに私はセルが好きだ。

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(セル)

 

悪の道に走るのにはやむにやまれぬ理由があった。

そう解釈したくなってしまうのはなぜなのだろう?

たぶん、殺人とか人を傷つける行為が、本能的に気持ちが悪いからだと思う。なにかそこに救いを求めたがるのだろう。

その一種の拒絶反応の結果として悪者の事情を作りこんでドラマに仕立て、「理解」することで読者に起こる「気持ち悪さ」のようなものを払拭させようとしているのだ。

ドラマ仕立ては私も大好きでむしろ悪者の事情を知りたいがために読んでいるフシもあるし、バックグラウンドがあるからこそ敵も魅力的になる。

ただ一方で「悪は悪」と割り切ってもはや「ちがう生き物」として遠ざけるのもひとつの拒否反応だと言える。

私たちは「理解」をすることで気味の悪さを遠ざけようとすることから、私たちにとって本当に怖いのは「理解不能」だったり「言語化不可能」なものであると考えられる。

だからこそ、悪役の華としてカリスマ性があるのは「絶対的な悪」すなわち「生まれながらにしての悪」であり、彼らこそが根源的な恐怖なのだ。