蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

※これは個人の感想です

SNSのおかげで個人の意見が拡声性をもって発信できるようになり、これまで注目されていなかったおもしろいものや問題がクローズアップされるのは大変ありがたく、誰しもがなろうと思えば革命家にでもなれそうな時代なのだけど、あまりにも個人の声が拡大されすぎて「うるせー」と思うこともしばしばだ。

99の賞賛よりも1の批判の方が当事者にとっては深く刺さる。頭を撫でられるよりも胸を突かれる方が痛く苦しいのと同じだ。

たとえ自分が批判されていないとしても、当事者(=コンテンツの発信者)と同調していた場合、それを貶めるような意見には胸が塞がる思いだ。

また、自分の好きなものへの批判や、自分の過去を暗に否定された気分になるような意見には敵愾心を剥きだしかねない。その意見が私個人へ向けたものではないとわかっていたとしても、傷つくものは傷つく。

で、傷ついた人々が多くなるとやはりそれも「拡声器」でもって発信されるので、どんどん広がって「炎上」になっていく。

毎日毎日誰かが炎上し、傷つき、クサい唾をつけて舐めあってる。その舐め合いすらほっとけばいいのにまた批判されたり攻撃の対象にされている。

人間は暴力的な生き物だ。

私たちは公開処刑をいつだって望んでいて、誰かが不幸になるのをポップコーンをつまみながら観賞するのを至福の喜びとしている。

↑こんな感じに「私たち」とか言って主語を大きくするのも考えものだ。私はいつからあなたの言う「私たち」になったのか?私はいつからあなたの言う「男」に、「20代」になったのか?

主語の大きい発言には使うのも見るのも気をつけたい。

 

インターネットを使ううえで常に自分に問い続ける。

今見ている「意見」は主観の拡大に過ぎないのではないか?そもそも真偽ははっきりしているのか?

誰も傷つけないどころか、自分が傷つかないためにインターネットを使うのすら、そこそこ難しい。持ち手も刃になっているハサミを使えるか?

 

気に入らない意見ほど砲丸のように飛んでくるものだ。たとえ一発であったとしても撃たれどころが悪ければそれは船を沈め、城を破る。

自分の考えとは合わないな、と思ってもその意見に同調している人が多く見られると、自分が社会的に否定され批判されているような気すらしてくる。

間違っているのは意見を言う人ではなく、私のほうなんだ。と。

でもそれはちがう。

声を大にして言おう。

それは、ちがう。

どれだけ大きく見えたとしてもその意見はあくまで個人の意見に過ぎない。

大きく見えるのは自分にとって害をもたらすからだ。恐ろしいものほど膨れ上がって見えてくる。

本質は「個人の意見」「個人の感想」に過ぎない。

それを周りがとやかく言うからますます膨らんでいき、いつしか意見の本質は忘れられて独り歩きして発信者の元を離れ、単なる言葉の塊となって憎悪をまき散らす存在と化すのだ。さも大多数の意見であるかのような形をとっているが、よく見ればそれは歪で不確定なバケモノだ。

そうなる前に「これは個人の感想だからな」と7秒くらいおいて考えた方がいい。

なんならすべての発信に「※これは個人の感想です」と注意書きをした方がいいんじゃないかとすら思う。

 

今の時代、個人の意見が直接人々に届き、また届けられるからこそ、個人の思考力だったり判断力だったり知識が求められている。かつてないほど高度な時代だと思う。

だからこそ「これは個人の感想です」精神を忘れずに自衛せねばならない。

もちろん、これも個人の感想だ。