スーパーマリオのキャラクター性の大きな特徴として、「ヒゲ」とか「赤い」とか「オーバーオール」とか「マンマミーア」とかいろいろ言えるけれども、私は声を大にして「マリオは資本主義である」と唱えたい。
もっと汚くすれば「マリオは資本主義の犬である」と言いたい。
彼のゲーム内での任務はピーチ姫を助けることに終始一貫しているが、道中ではコインを集めることが目的のひとつと化している。まるでそれが、生きる目的だとも言わんばかりに。
ただ、マリオはコインをやみくもに集めているわけではない。
私たちがやみくもにお金を稼いでいるわけではないのと同じように、マリオの世界の貨幣にだって価値があり、効能があるのだ。
一定数集めると残機が増えたり(寿命を延ばしている)、ダメージが回復したり、水中では酸素にもなる。
水中にいると呼吸が苦しくなって溺れ死んでしまうのだが、どういう理屈か、コインを集めるとゲージが回復して酸素代わりとなる。
お店に行けばアイテムと交換することも叶う。
そう考えると、我々の貨幣よりもよっぽど使い勝手の良いものに思えてならないが、結果としてできることは同じでもある。私たちだってお金を払って病院へ行ったり、延命したり、酸素ボンベを買ったりできるではないか。
だからあれは我々の、カネ、と同じに見ていいだろう。
それにしても、コインで水中を自在に泳げたり命が増えたりするというのはなんだか節操がなく、そういう部分で資本主義の犬と断じざるをえない。
マリオはカネを集めにBダッシュしているのだ。
これを資本主義的と言わずなんと言えばいいだろう。
マリオを開発したニンテンドーは日本の企業であり、日本は資本主義の国である。
もしもソ連が開発していたらどうなっていただろう。
マリオはコインを集めなかったのでは無いだろうか?
開発者は「コインを集めさせよう」という発想には至らなかったのではないだろうか?
もっと言うと、クッパみたいな「支配者」がいるのはかなりまずいから粛清されるだろうし、ピーチ姫も旧帝国的で反革命的だから粛清。
マリオとルイージも職業不定で共産圏の幸福なイメージにそぐわない。粛清。
キノピオだけが残る世界。そこでなにが生まれるというのだろう。
コインじゃなくてやっぱり「配給券」を集めるのだろうか。それをキノコと交換するのだろうか。
ステージを攻略していくというよりか、ステージを支配していって、最終的にクッパの旗を下ろすのではなく、自分たちの旗を立てそうではないか。
死んでも代わりがいくらでもいるから大丈夫だろうな。