アマプラで配信されていた『君の名は。』をやっと見た。
映画館でやっていた当時は、この映画がすごいブームになって毎日のようにテレビで前前前世が流れており、天邪鬼な私は「ぜったいに見るものか」と倦厭していたのだった。
ブームになってメディアに消費されすぎると、ぜったいにそのコンテンツとは関わりたくない!と思う人は案外多いのではないか。
自分でもなぜそうなるのかわからない。流行に乗る人々を馬鹿だとは思わないし、好きにすればイイと思うけど、自分はその流れに飲み込まれたくない、と頑なになってしまう。
たぶん、メディアとか大きな流れに押し付けられるのが嫌なのだ。感動する作品!と言われると、自分が感動しなければならないと思ってしまって、実際に見て抱いた感想が自分のものではなくなる気がしてしまう。みんな見てるから自分も見よう、という気持ち、そこに自分の意思はなくて、その行動が嘘のように感じる。
一定数いる、私のようなそんな人たちのために、メディアは過剰に取り上げないでほしい。
『君の名は。』もそのひとつ。
当時の私は、そういうわけで、絶対に見るものか、と決めて、今日まで来たのだった。
そんなわけで、ほとぼりも冷めたので、ようやく見ることが叶った。
男女が入れ替わる話ということしか知らないでいたので、自分でもよくここまでブームになっていながらネタバレ喰らわずに来れたなと思うモノだが、ネタバレせずに見れて本当に良かった。たしかに、いい映画だった。
いい映画だったけど、SFとかフィクション慣れしていない人には結構難しかったのではないだろうか、と今更ながら思う。2016年の上映当時はどうだったのだろう。そこそこ難しい構造の内容で、よくあそこまでブームになったもんだ。一度見たことのある妻でさえ隣でちんぷんかんぷんになっていたので都度止めては説明し、見終えた頃には「数年越しにようやく意味がわかった」と納得していた。
フィクションへの造詣がある程度ないと、話の要素の一つ一つに目がいってしまって散漫になり、理解するまでにまとまりを欠いてしまうだろう。
新海誠監督の作品は、かなり前だけど、いちおう『言の葉の庭』と『秒速5センチメートル』は履修済みだ。
まずあの美麗な作画だけでも充分に楽しめるのは、アニメとして重要なファクターで、アニメ冥利に尽きる。『言の葉の庭』なんてまさしく雨を描きたかったんだろうな、という意志を強く感じた。
そして相変わらず主人公はいつもなにかを探している。
『君の名は。』も探す物語だった。
失ったものを探しているのか、未発見のものを探しているのか、ほんとうはもう手の中にあるのに見えないでいるだけなのか、とにかく「探す」のが3作品見てきた特徴だ。『天気の子』と『すずめの戸締り』もなにを探すのか注目して見てみよう(あと新海誠監督は歳の差カップルがマジで好き)。
「君の名は。』を見ながら、村上春樹の『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』という短編小説を思い出していた。
男の子が、交差点ですれ違った「100パーセント」の女の子に目を奪われて、僕たちは実は前世から知り合いで愛し合っていたけれど、悲劇的な結末で前の世界では別れてしまい記憶も失ってしまっているんだ。でも魂はいまの世界でもたしかに繋がっていて、こうして偶然にも交差点ですれ違ったんだよ、僕は君を見て思い出したんだ、ここで出会ったのは必然的な運命なんだ、と声をかけるんだか、思うんだか、忘れてしまったけど、とにかく自分の中に沸き起こった100パーセントの気持ちをぶつける、出会いのお話。
『君の名は。』も出会いの物語だ。
あれだけお互いを求め、心を通わせた二人が、映画の最後に言った「君の名は?」というセリフ。
記憶もないし名前もわからないけど、どこかで繋がっていたことをたしかに憶えている二人の、これは、出会いの物語なんだ。
出会ったその日から、まるでずっと前からお互いのことを知っていたかのように思える、そんな友だちやパートナーがいる。
運命の人、と言ってしまえばそれで終わってしまうかもしれない。
でもその、運命とも思えるありがちで使い古された「出会い」の物語を、この映画はSFを交えて純に描ききっている。
そのストレートさがたまらなかった。
インターネットを使えばいつでも誰かと出会える時代であり、都会では人が密集しすぎ、田舎では濃度が高くなりすぎる時代だからこそ、運命的な出会いというストレートで純なストーリーを描いたことに意味があったと思う。
もっとはやく見ておけばよかった。
メディアは押しすぎると、ひとりの人間の鑑賞機会を奪うことになるんだから、気をつけた方がいい、マジで。