『君たちはどう生きるか』の感想を書くので、ネタバレが嫌な人はブラウザバックしてください。
内容の考察なんてほとんどできなくて、感情的で感覚的で独りよがりなことばっかり書いているので、解釈の参考にしたい人も、回れ右です。
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見終わったときのまず第一の感想は「なんかすごいものを見た」だった。
「苦しみ抜いて生み出し、やりたい放題やって、なんかこうなりました。私の素裸を見てください、肛門のシワまで」宮﨑駿監督のあられもない姿を想像させられた。
命懸けで作ったな。そう思った。
ひとつひとつの要素について考察し、意見を出すのはたった一度の鑑賞では難しい。少なくとも5回くらいは見ないと、私程度の脳みそでは困難だ。
私みたいな、文学部卒の作家作品論かぶれの大した思考力も知識も有さないくせになにかと深いことを考えたがる、烏滸がましいにも程がある油虫以下の存在は、なんか小難しくて自分の理解が追いつかないすごい作品を目にすると、「ああ、ありがたい」なんて思う。
『君たちはどう生きるか』はまさにそういう作品だった。
余韻があるのはもちろんだが、目が回るような熱量に浮かされた。
映画館を出て、すぐに文房具屋に寄ってメモ帳と簡素なボールペンを購入し、目に入ったカフェで茶を飲んだ。頭の中がとにかく混乱していたので、思い出せる範囲で場面を整理し、作品を咀嚼しようと思った。
ただ、メモ帳に書き殴っていくうちに、そういえばこの場面の意味はなんだったのだろうか、などと考えてしまってスルスルとは捗らない。
映画を見ていたときも、場面の意味を考えながら見ているともう次の展開へ進んでいるのでなんとかストーリーを追うのでいっぱいいっぱいだった。
カフェに2時間くらいいたけれど、整理しきれず、映画館の最寄りから自宅まで、1時間以上歩いて帰った。
猛暑ではあったけど、風がよく吹いていて、日陰に入ると寒気すら覚えた。
これだけ抽象的で叙事詩的な作品だ、「トトロ」とか「魔女の宅急便」みたいなエンタメではない。小さな子どもたちも来ていたけど、退屈そうに何度もトイレに立つ子もいた。私の隣の席のおじさんも中盤以降は静かな寝息を立てていた。一回起きたときがあった。そのときは持ち込みのおにぎりを頬張り、満足したのか、再び安らかな眠りに落ちていった。
今作は一切の宣伝をしなかった。情報はポスターとタイトルだけ。しかも内容は小説の『君たちはどう生きるか』とはまったく異なるオリジナル。事前になにも考えようがなかったけど、なんとなく、ポップなエンタメ作品ではないのだろうな、とは思っていた。
だから、映画が進むにつれて、客席を置いてけぼりにされるに従って、やっぱりか、と思った。根拠もない予想だったので自分はなにひとつ凄くないのだが、ああいう展開になっても驚きはしなかった。心の準備なしに見ていたら、怒りを覚えたかもしれない。
また、一切の宣伝をしなかったその意気もわかった。
宣伝をしなかったのではなく、宣伝をしたくなかったのだろう。宣伝をして余計な言葉が増えるごとに、この作品はその純粋な意味を失いそうである。
主人公の眞人君はお母さんを失ってから、自分自身も空っぽで死んだような感じになる。新しいお母さんになるナツコさんは、お母さんの妹で、しかもお腹には赤ちゃんがいる。お母さんはまだ去年くらいに亡くなったばかりだというのに。
お父さんはいい人なんだけど、どこか独善的で人の話を聞かない。自分の信じることがすべての真実だと思っている。どこにでもいる、普通に最低で、愛情深いお父さんだ。憎むこともできるし、愛することもできる。
引越し先のお屋敷にある、古びた塔の秘密をナツコさんが教えてくれる。秘密を共有してくれたことで少しずつこの新しい家族の一部になっていけるような感じがしたけど、その次のシーンではお父さんとナツコさんが熱いキスをし、腰を抱き合うのを目撃する。
眞人君はこの家に居場所がない。
こういう状況の中で、怪しい力や、本当のお母さんに引き寄せられていく感情は理解できる。
学校で喧嘩して、帰り道に自ら石で頭をかち割る。これは自らの中の悪意がやったことだ。
みんなを心配させてやろうとか、どこでもない場所に行きたい感じとか、血で溢れかえるあのシーンは、単純な理解は難しいけれど、なんだか「わかる」かんじがした。
この映画にはそういう場面が多い。
眞人君は宮﨑駿監督自身であり、私たちなのだろうと思った。
そして物語の鍵を握る大叔父も監督なのだろう。
物語を作る=自分の世界を持つということ。
それを引き継ぐのではなく、眞人君はこの世界を抜け出し、地に足のついた自分の世界で生きることを選んでいた。
物語の世界、自分の世界というものは、誰かから授かるものではなく、ぶっ壊して瓦礫の上に創っていくものなんだ。
不思議な力を閉じ込めた古びた塔は、監督にとってはスタジオジブリおよび自分のキャリアそのものなのかもしれない。
ここまで築き上げてきた世界を誰かに託したい。永久に残しておきたい。
でもそれは結局、自分の手によってしか叶わない。
誰かにやってもらうことではない。
人には人の才能があり、似たような力を持つものに押し付けたときに、後に残るのは、自分自身の劣化コピーでしかなく、そして押し付けられた人の死だ。その人はどこにも何も残せない。
すさまじいエゴイズム。
存続させてほしい大叔父の監督と、自分で世界をこれから創っていく眞人君という監督自身。相反するけど、大叔父は眞人君への理解が結構ある。
なんとなくだけど、すべてを終わらせて新しい世界を作る次世代の人たちへの期待があるのだろう。そして大叔父は自分の肩を押してくれる人を待っていたのだろう。
だから監督は、あの世界を崩壊させることができた。
作中の大叔父と眞人君の対話はまるで、自分のケリをつけたいがためにやっている茶番みたいだった。
インコの大王は、しかしながら、崩壊を拒否し続けていた。
たぶんだけど、インコたちは、ジブリファンである観客や、大衆、スポンサーなのメタファーなのではないか。
私たちはあの頃のジブリ作品のワクワクを何度でも見ていたいし、新しいエンタメに常に飢え続けている。スポンサーは、創作者にその人が作りたいものではなく、私たちが望むものを出せと訴え続ける。そしてその結果は、金というかたちで明確に出てくる。創作者にしたらもう、うんざりだろう。
崩壊に傾いていた世界を、インコ大王が作り直そうとして、結果、失敗する。
じつに皮肉が効いている。
作品の中ではインコの大王様が積み木を崩していたけど、作品をそういう方向に持っていこうとしたのは監督の意思だ。もう諦めな、ってことだろう。
眞人くんと大叔父は同じ存在だけど、同じ世界には同時に存在できない。なぜなら相反していて、二人は別々の世界を持っているから。
大叔父は崩壊する世界に残る。
塔は瓦礫になり、閉じ込められていたインコたちが解き放たれる。
口先が蠢き、自分の翼の力を知ってか知らずか飛ぶことはなく、食欲と排泄が旺盛で、カラフルなインコたちが、飛び立つ。とにかくそのシーンは美しくて祝福的だった。
ジブリという過去そのものに固執していたインコたちが新しい世界に飛び立ち、自分の居場所を、世界を探しに旅立つ。
うんちまみれになったお父さんが、戻ってきた眞人君とナツコさんを抱きしめるところがあつい。基本的に、いい人なのだ。嫌なところも多いけど、それを許せるような度量が、戻ってきた眞人君にはあるようだった。
死んだような顔で異世界に行った眞人君は、自分の母親に会い、ナツコさんの存在を許し、ひとつの世界にケリをつけ戻ってきたとき、生きた心地のある少年になった。
不思議な青サギという友達ができて、きっとここから眞人君は自分の世界、自分の生きかたを見つけていくのだろう。自分だけの居場所を。
眞人君は宮﨑監督の過去であり、そして私たちのこれからでもある。
権威なんて、閉じ込めている古い殻なんて、ぶっ壊してしまえよ。
「私はそうして、ここまで生きてきた」
そう言われているみたいだった。
『君たちはどう生きるか』は監督からのメッセージだ。
さて、私たちは、どう生きるのだろう。
もしかしたらいつまでも金曜ロードショーの魔女の宅急便ではしゃいでいる場合ではないのかもしれない。
根拠もなにもなく、ただ一方的な解釈と感情で書いたので、あしからず。
とりとめもなく乱文失礼しました。