蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

帰りの遅い日

の帰りが遅いと、妻が不貞腐れる。

最近ちょっと残業が続いてて、家が遠いのもあって帰宅は21時を越えている。これでもまだ大した残業ではないし、私はまだもう少し仕事をしていたいのだけど、あまりにも遅くなると妻になにを言われるかわからない、なんて理由を作って、あとは明日の自分に任せて仕事を止め、帰ってる。

私の帰りが遅いと、妻は独りで食事をすることになる。

一緒に食べるときはいつも妻がお喋りをして、私がウンウンと頷いたり、頷かなかったり、苦言を呈したり、妻がお茶を溢しそうになるのを注意したりする。私が話すと妻はほとんど聞いてくれず、さっさと飯を食べ終えるのだが、それはまぁ、別の話だ。

「先に食べてって言われても、独りで食べるのは寂しいもん」

だから極力、はやく帰ることを心がけているけど、今後それは難しいことになりそうだ。仕事がますます増えていく。

 

食事は二人でするから美味しい。

それは、独りで食事をしたときによくわかる。どんなに美味しいものを食べても、なんていうか、喜びはあっても楽しくはないのだ。

情報として「美味しいもの」を食べ、プログラムされたように「美味しくて嬉しい」とは思っても、味気ない0と1の羅列みたいな感じがする。そう、味気ない。

もっと言えば、妻がいるから美味しい。

惚気てるみたいに見えるかもしれないけど結構切実なことで、私は妻と出会うまで食事というものに一切の楽しみを見出せず、いつも『人間失格』の葉造の幼少期の食事風景みたいな心持ちで食事に臨んでいたのだ。

なんで人と食べるのかわからない、なにを食べても最低限栄養を摂るための行為でしかない、つまらない。

そんなわけで、妻と一緒に食べるのは私にとって大切なことである。

 

同じタイミングで同じものを食べるというのはとても大事なことだ。なぜか私たち人間は、食事を共にすることである程度の連帯感のようなものを得られるようにできている。

多分だけど、一緒に眠ったり、一斉に乱交することでも似たような連帯感を得られるのではないか。

それはともかく、同じ釜の飯を食べるのは大切で、すれ違いを原因に離婚した夫婦の多くは生活リズムのズレから食事を一緒にしなくなり、ついでにコミュニケーションも減って感情の行き違いが発生するものと思われる。

夫婦なんて所詮は他人。人と人は言葉を使わないと心を通わせられない。

 

だから、できるだけ、妻とは一緒に食事をしようと思ってる。

夜は難しくても朝なら可能だ。

しかし朝は、妻が着替えやら化粧やら前髪を巻くやら準備に慌ただしくて、食事を3分で済ませるため、話しかけようものなら殺害されてしまう。

「ひどいニュースだね」

「……」

「このNHKのアナ、ネクタイあんまり似合ってないな〜」

「……」

「あっ、天気予報でさぁ、さっきね」

「黙れ」

「……」

でも一応、同じパンを食べ、同じ紅茶を飲んでいる。形だけでもまずは大事だ。