「マツコの知らない世界」でフレンチトースト特集がやっていて、行ったことのある店がいくつか紹介されていて嬉しくなった。
「ああ、ここのやつは本当に美味しい!」
「ここはいつ行っても並んでる」
「一生に一度は食べるべき」
などと行ったことのある店が紹介されるたびに嬉しくなり、また、この番組効果で混雑するなぁとやきもきした。
そして、つくづく私はいろんな店に恋人と行ったのだなぁとしみじみした。
彼女はこの手の「美味しそうな店」をいくつもストックしてスマホのメモに入れてあり、たとえば新宿で魚料理食べたいね~と話したらメモを見、「それならここのお店美味しいらしいから行ってみようよ」と誘(いざな)う。
または、「神保町のこのカフェエが良いらしいから今度行こうよ」と誘う。
よくもまぁいろいろな店を知っているものだと関心する。
どこで情報を仕入れてくるのかわからないが、私が美味しい店の情報を知りえるのは恋人からでしかないことは言うまでもない。
思えば、恋人と出会う以前と以後では「食」がだいぶ変った。これは以前にも書いたことかもしれない。
すごく根本的な変化だが、以前の私は「食べる」ことに執着していなかった。
できるだけ食べない方が良い、とダイエットのつもりもなく自然とそういう風に考えていて、食事はくだらないルーティンだと決めていた。
なにを食べても美味しくなかったし、みんなで食事をすることは苦痛以外のなにものでもなかった。どうして食事をするだけで顔を合わせなきゃいかんのか。そこには食事の美味しさに勝る、気まずさがあった。
恋人と出会って、二人で食事をするようになるまで、ずっとそうだった。
だから彼女と出会うまで私はガリガリだったし(今も痩せているが)、食事を蔑ろにするように自分のことも蔑ろにしていた。
恋人と出会ってすぐくらいにデートをとき、食事が喉を通らなかったのを覚えている。
とてもお腹が空いているのに、口に運ぶと味がしなかったのだ。
緊張していたのだろうし、それ以上に喜びで胸がいっぱいだったのだろう。
あるとき、恋人が例によって「行ってみたいお店」に誘ってくれてそのお店に行ってから、私は初めて食事が本当に素晴らしいことで人生を豊かにする大切なファクターのひとつであることを思い知った。
それから、二人で行ったいくつかのお店は何度でも通いたい大切なお店になった。
昨今のコロナの不況でいくつかのお店が危機に陥っている話を聞いた。
どうにかしたい気持ちがある。
私の大切な食事で、人生を豊かにする大切なファクターで、二人の思い出なのだから。