蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

人類愛の矛先

解できないことはいくらでもある。

理解しようとしても理解できないことは、アレルギー的に自分の資質に合っていないのだと割り切って、できるだけ触れない方がいいのだろう。

「理解しようとした」その事実だけでもいいとおもう。

そもそも、誰もあなたに理解されたがってなどいないのだから。

私は誰かに理解されることが心底気持ち悪い。お前に何がわかると言いたいし、理解されるのを頼んでもいない。だけど、理解されたい。なんていうか、理解する努力だけをしてほしい。だけど、理解はしてほしくない。面倒くさ。自分で自分が理解できない。

 

   ↓

 

毎日のようにSNSで炎上している人を見る。

毎日だれかしらがその非を指摘され、吊るし上げられて、八方から叩かれ、結果SNSを止めたり、住所が特定されて日常生活にも支障をきたすことになったり、ろくな目には合わない。

 

先日気持ちが悪かったのは、炎上した人が素直に謝罪の弁を述べていて、自分の非を認め、潔く事を認めたことに対し、周囲の人がさも常識人ぶって「さあ素直に謝ったんだから、みんな、もうやめてあげよう!」といった呟きをしていたことだ。

歪んでる。

同じ旨のツイートをしているひとが相当数いた。気色が悪い。

なんていうか、その発言は、炎上者が謝らなければ、そいつが死ぬまで石を投げ続けてもいい権利を自分が持っているかのような、そんな意識を孕んでいるような気がしたのだ。

 

炎上するには炎上するだけの理由があって、たとえば犯罪しているとか、人倫に悖る発言を繰り返し人々の精神衛生を汚染するなどが挙げられるが、なかには若干気色悪いだけで、そこまで炎上するほどのことなのか、炎上者が精神を病み、外を出歩けなくなるほどのことなのかと言いたくなるような案件もある。半分くらいはその程度のものだとおもう。

 

わざわざ赤の他人につっかかりにいって、鼻息荒くパケットを浪費して批判し、泣き顔を晒すまで許さないと怒り狂って憎悪を伝染させ、黴(かび)が繁殖するように仲間を増やし、自分の正義が認められて、心が負の感情の反転という一種のカタルシスを味わい満足するまで、まったくの赤の他人に一方的に怒り弾劾できるなんて、よっぽど人類愛に満ちているのだろう。

私は、私と恋人とわずかな友だち以外のすべての人間のことがどうでもいいとおもっている薄情者なので、あそこまで他人に怒り心を燃やすことができない。

理解できないような不快な人間がいたら、怒り散らして時間を浪費するよりも、さっさと忘れる努力をして好きな音楽でも聴きながら甘いものを食べている方がよっぽど人生は幸福になれるとおもってしまう。

 

自分への理不尽を訴えるためでもあり、世直しのために「あなたを想って」怒っている人もあり、ともかくまぁ、ほっとけばどうだっていいようなものにわざわざ突っ込んでいって憎悪を増悪させて、精神をすり減らすなんてよっぽど修行者だ。

もしかして、そういうことをするとめちゃくちゃ気持ちがいいのだろうか?あるいは、どこかから賞金でももらえるのだろうか?徳を積めるのかもしれない。来世を見越しているのかもしれない。

非難できるほど炎上者のことをわざわざ考えていられるなんて、よっぽど隣人愛を持て余していないとできないとおもう。素晴らしいことかもしれない。

 

理解できないものについて冒頭で述べたが、それだけではなく、また別に「理解したくもないもの」がある。

今日はそういう類の話でもあったのかもしれない。