蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

「写真みたいな絵」を描く人の目的

 実的な絵画というものがある。「写真みたいに精巧な絵」だ。

 まるで写真のように細密に実際の人物を描いた肖像画とか、風景とか、たまにネット上で話題になっては論争を巻き起こしている。

「写真撮ったほうがはやい」

「写真でいいじゃん」

といったような意見を必ず目にする。

 あまりにも写真的で、それだけ細密でリアルだと、結果として絵はほぼ写真になる。

 写真と見比べてもどっちが絵なのかわからなくなる。

 結果的に同じ被写体を見ることになるのなら、過程の準備がはやく済むのはカメラになるわけだから、それで「写真でいいじゃん」という意見が出てくるのだろう。

 

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(余談だが白い紙に置いたものを写真撮るとそれらしくなる)

 

 たしかに、その意見には一理ある。

 そもそも写真技術は絵画では困難だった究極の写実性を出すために開発された技術であり、カメラとは絵では描写できなかった「ありのまま」を写し出すための装置であるから、結果として写真と同じものが出来上がるのだとすれば、そこは絵である必要性はまったく、ない。

 カメラがどうしても手に入らない。鉛筆と紙しかない。そう言うなら、「描」かざるを得ないのは仕方がない。

 だけどそれでは完成までかなりの時間がかかるし、モデルだって静止していなきゃいけないから大変だ。

 そう考えると「写真でいいじゃん」という意見には肯いてしまうのだが、そもそも写実絵画の目的は、結果ではなくその過程の技術にあるのではないかと私はおもう。

 

 写実絵画のおもしろさと目的はその過程にあって、どれだけ精巧なものを描けるかというその技術の美しさにフォーカス(絵だけど)が当てられているのだ。

 被写体をありのままに捉えたいのなら、誰だってカメラを使うだろう。ここは19世紀じゃないのだ。よっぽどの馬鹿じゃなければカメラを使う。

 ただそれは完成品 = 結果に対する姿勢であり、そもそも写実絵画を描く人の目的とするものではない。

 結果として写真みたいなリアルな絵になるだけであって、真髄はその過程の技術力にあるのだと私は考える。

 だから、たいていの写実絵画には制作過程の動画が付随することが多い。それを観て、おおすごい、とため息を吐く。そこに目的とする感心と感動がある。

 それらの作品はその動画も含めた、制作過程から作品ははじまっているのである。

 

 だから「写真でいいじゃん」という意見は、正しいけれど間違っている。

 カメラ技術発展の目覚ましい現代において、ハイクオリティの写実絵画は、カメラ時代以前の写実性とは趣を異にしている。目的を別のところにかまえているのである。

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(それっぽくなる)

   ↓

 

 ただ、完成品が写真と見間違えるほど精巧だからといってなんになるのだろう、ともおもう。

 制作過程がまったくなく、描きました!とだけ出された写真のような絵には何の魅力もない。それこそ写真でいい。

 インターネットの画面越しではインクや絵の具による微細なにじみや膨らみも感知できず、画面越しの完成品は写真でしかない。無論、写真のように細密なので絵筆のタッチの個性もない。むしろ個性は徹底的に排されている。

 

 ある意味、そういった作品はカメラに敗北していると言える。

 19世紀に印象派が誕生したのはカメラの登場が契機となっている。絵画では敵わないカメラの圧倒的な写実性に、画家はどういう目的で絵筆を握るのかを問われたのだ。

 技術では敵わない。そこで画家の至った結論は、「自分の目を通した世界を描く」ことだった。

 一人の人物を描いたとき、モデルとの親密度や友好性によって、完成品の表情や色合いは大きく変わってくる。

 ある景色を描いたとき、光や色の調和に画家の心象風景が顕れてくる。

 画家たちはそういった個々人の世界のリアリティを描いたのである。

 画家たちは「自分にしか描けないもの」を描いたのである。

 

 だから、単に写真みたいな絵の作品は、絵画作品としてのおもしろさは技術以外に、ない。

 そこに作者の心象が顕れ、描かれた人物の心が透けて見えてくるようなリアリティが、写真以上に出てこない限り、「写真みたいな絵」は写真にも絵画にも敗北していると言わざるを得ない。

 

 無論、この意見は、「写真みたいな絵」を描く人の目的が、過程ではなく結果に向けられている場合と、絵の練習ではなく作品制作を目的されている場合にのみ、抱かされる私観である。