昭和だったからこそ生み出せた「未来の姿」があった。
「昭和少年SF大図鑑」 夢あふれる未来予想図のオンパレード|好書好日
空にはクルマが走り、人々はやけにピッタリした銀色の服を着て、物理法則を無視した高層ビルが立ち並ぶ、未来の世界が昔あった。
この、昭和期に「思い描かれた未来」の世界にはロマンがある。
空飛ぶクルマ|やんぢのブログ|熱狂的シトロエニストのBMW生活(笑) - みんカラ
今なお達成されていないこの「未来」はどこか懐かしく、滑稽で、そして愛しい。
このように昔に描かれた未来像を「ノスタルジックSF」と勝手に名付けて呼んでいる。
ああ、懐かしき未来よ。
ぼくたちの夢見た未来は、もう過去のものだ。
ノスタルジックSFには2種類あると考えられる。
ひとつが「昭和物」だ。上記にも画像を載せたような、少年科学雑誌に掲載されていた類のもの。
『チャージマン研!』をSFに分類するのには抵抗があるが、まさしくこのアニメで描かれている未来像は教科書的といってもいいほど「昭和の未来」だ。
昭和200年はこんな世界かもしれない。
第35話「頭の中にダイナマイト」#チャージマン研!〔リマスター&超字幕版〕#ChargeManKen - YouTube
もうひとつが「クラシック物」で、こちらは『月世界旅行』に代表される、とくに西洋の20世紀初頭あたりに製作されたものを指す。
映画は宇宙を目指す。 vol.1『月世界旅行』 | 宇宙編集部
『月世界旅行』もまたSFと言ってしまっていいのか果たして微妙なところだが、この映画に描かれているのはノスタルジックSFの「クラシック物」の姿としてひとつ基準としたい。
「クラシック物」はそれはそれとしてジャンルを確立できるような気もするが、「新しさ」を感じるというよりは「懐かしさ」の感覚に入ると思うので、一分野として枠組みの中に入れた。
スチームパンクともジャンルを分けているのだけど、こちらは私のインプットが少なくて類例を出しにくい。
ノスタルジックSFについて、どの時代のSF作品をノスタルジックと呼ぶか、という区切りは一体、熟慮すべき課題だ。
たとえば『AKIRA』(1988年)を作品として古いとできるかというとそうではなく、今なお新鮮な気持ちを呼び起こす作品だし、『2001年宇宙の旅』(1968年)も同様にノスタルジーを感じられる古い作品かというとそうではない。今『2001年宇宙の旅』の映画を調べてみてそんなに古いものだとわかってびっくりした。
一方で市村昆の『竹取物語』(1989年)はノスタルジーの方面だと私は思う。
竹取物語【市川崑監督作】 | TELASA(テラサ)-邦画が見放題
「今から見てそれが古いかどうか」はたしかにノスタルジックSFの価値観のひとつだけど、これを基準として客観的に判断することはできない。
今という時間は常に動き続けているし、古さは人によるからだ。
どんなに古い時代の作品でも見る人の心によっては新鮮に映る。
『AKIRA』を私は毎回新鮮な気持ちで見るけれど、それは私の主観で、人によっては「古い」と言っててもおかしくないし、それは悪いことではない。
ノスタルジックSFの「古さ」を「古臭さ」と言い換えてしまうのも横暴だ。古臭いわけではないし、その言葉には愛がない。
ノスタルジックSFを客観的に定義するのは難しい。
ノスタルジックSFに含まれる要素として、「希望」があるのではないかと思う。
それは作品の内容に関わらず、なんというか、「ぼくたちの未来はきっと明るい」みたいな、オーバーテクノロジーに対するワクワク感、目を輝かせる感、ある種の烏滸がましさすらも抱いてしまうドキドキだ。
すべてのノスタルジックSFにこのワクワクドキドキがあるわけではないだろうけど、その要素がどこかに入っていると、感情は懐古し、ノスタルジックSFをそこに見出すような気がしている。
ノスタルジーとはそもそも、感情なのだ。
今摂取している「未来像」もいつか古くなってしまうかもしれない。
私はディストピア的な未来小説ばかり読んでしまうのだけど、楽しい未来が待ち構えてくれたほうが、めっぽう嬉しい。
今思い描く未来が、古くなってしまいませんように。