蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

神保町は良いな

日は久しぶりに神田神保町の古本街へ行った。

と言ってもあまり時間が無かったので、20分ほどの滞在であったのだが、それでもつくづく、いい街だなぁと感じ入ったのであった。

 

古本は良い。

なんか、良い。

古ければ古いほど良い。

ホイル包み焼きにでもしたのかってくらい表紙は焦げて題目も読み取れないものが多々あるが、それが良い。

ページをめくったとき「ばりばりばり」と本を開いているとは思えない音がして、それが良い。

やたら文字が小さく、印刷不鮮明で、活版印刷特有の文字のずれや、紙の歪み、ひどいと行が潰れていることもあって、今だったら即廃棄処分ものだろうけど、そういうところがなんだか良い。

 

たった50年前の本でもロマンはある。

50年前、私と同じくらいの青年がこの本を読んだかもしれない、そして同じことをここの行で思いついたかもしれない。

ときどき線が引いてあったり、引用がされていて、ああ前の持ち主は勉強家だったんだなぁとおもう。

書物は著者の頭の中身であると同時に、読み手の思い出や記憶が詰まったタイムカプセルのようなものでもある。

もちろん、前の持ち主が何を考えていたのかなんて知る由も無いけれど、ページに手垢をつけた彼・彼女もまたこの本を読んで何かを考え、思い巡らせ、私もまた同じ本を読んでいろいろ考えている、そのある種のタイムマシン的なロマンがたまらない。古本は知識や物語を当時の趣をもって伝える装置でもあるのだ。

だから古ければ古いほどいいのだろう。

文豪の作品は古ければ古いほど初版の発行当時の趣に近くなり、ほんのすこし天才たちに近付ける気もする。

古本は「当時の雰囲気」を残しているのだ。岩波文庫の古本でも、200円で買ってしまえば、ページを開くと昭和30年代がそこにある。昭和30年代の、この本を買った人に思いを馳せる。

 

重く大きく権威的な書架の、足の先から天井まで、重厚な書物が敷き詰まっているのも見ごたえがある。

そこには忘れ去られた歴史のことや、誰も見向きもしなかった論文集や、消滅した思想の本がずらりと並んでいる。

そんな本屋が軒を連ねている。

街ひとつが知識の集積。巨大な本棚。

神保町をうろうろしているだけで頭が良くなる気がしてくる。

実際、頭が良くなった、という研究結果も、広大な古本街を探せば出てくるかもしれない。

そういう怖さもこの街にはある。