蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

J'aime les toilettes

 どうして私はトイレが好きかと言うと、落ち着くからだ。
 自宅のトイレは特に落ち着く。嫌なこと全部忘れる。
 あの狭さがいいと思う。うちのトイレは一畳くらいしかないのだが(どの家もそうだろうけど)、あの一畳という広さは大変よくできている。狭いけど心地よい空間の大きさとして設計されている。
 考えてみてほしいのだけど、トイレがイベントホールくらいの広さだったらあなたは落ち着いて用便ができますか?
 できないでしょう。
 気が散るでしょう。
 私は多機能トイレくらいの広さでも落ち着かない。空間が漠然と広がっていて意識が乱れ、「すみません、ここでしちゃいけないんでしたっけ?」って気分になり、自分がとても惨めな生き物に思えてくる。
 どうして多機能トイレに入るだけで惨めだと思わなきゃいけないのか。それは、自分の用便にそぐわないほどそこが広い空間だからだ。道で糞を垂れている犬がいつも「見ないで」って悲しい目をして背を丸め便意に従っていることからわかるように、用便はそもそも惨めなものなのだ。それをさらに広い空間でするとなると、自分を客観視してしまうため(どうして私は広いところでしなければならないのか。広い空間にぽつんといるのだろうか。下半身丸出しで)、本来の惨めさが露わになり、だんだん情けない気持ちになって自傷的な気分になって、悲しくて、この気持ちは水にも流せない、なんてことになってくる。
 多機能トイレは多機能トイレを必要としている人が使うべきなのだ。
 
 自宅のトイレにわけもなく篭ることがあって、温かい便座で暖を取りながら本を読んだり140字小説を考えたりするのだけど、これがとても集中できる。
 必要十分にして必要最小限のものしかないため、雑念が消え、意識がきゅっと対象に向かって鋭くなる感覚がある。
 芳香剤の香りも好きだし、喉が乾けば水洗もある。

 いや、飲まないけど。

 大学のトイレは綺麗だし静かだしありがたい。
 私は人目を嫌う陰(いん)の者なので、大学に着いたらとりあえずトイレの個室に入り、気と呼吸を整えて、「大丈夫……生きてても大丈夫……」と自分を鼓舞し、水洗の水を飲んで心を落ち着かせることにしている。
 いや、飲まないけど。
 こうなるともう精神病の疑いがあるのだが、そんなことはないだろうと一先ず置き、私にとってトイレはメンタルケアの役割を担っているのである。
 インスタント・パーソナルスペース。これに篭ることで私は自分を失わずに済んでいる。トイレはケアセンターのジェネリックと言ってもいい。
 テストがあって緊張したり不安だったりするとすぐお腹が痛くなってしまうので、お腹が痛くなる前にトイレに篭ることにしている。
 トイレ大好き。
 でもお昼休みをトイレで過ごすことはなくて、なぜならトイレで食事を摂りたくないから、大学外のカフェに行ったり、エスカレーターの下のベンチや、外の公園に行って、食事や読書や睡眠をとっていた。無論、友だちはいない。

 トイレは「自分」になれる空間だ。誰にも気を遣わなくていい。お腹が痛くなっても心配いらない。愛すべき孤独になれる空間であり、自分の時間を与えてくれる。
 ただ、その孤独が牙をむくこともある。
 たとえば、嘔吐しているときだ。嘔吐はつらいもので、何回泥酔しても慣れない。戻すたびに涙を流して震えてる。
 嘔吐は孤独な戦いだ。助けを呼ぶこともできない。というか、助けられたくない。嘔吐している(しかも泥酔)浅ましい姿(自業自得)を見られたくない(罰)。
 でも、助けてほしい。どうにかしてほしい。「助けてぇぇぇえええ!!」と心の中で叫びながら、余分なアルコールを下水に流す。
 水分が失われるので水が飲みたい。そういう時は水洗があるから助かる。
 いや、飲まないけど。
 このようにして、トイレは愛すべき孤独空間を作り出してくれる代わりに、孤独を強調する場でもある、一時的に自分と世界を断絶させる空間になりうるのだ。陸の孤島ジェネリック

 自宅のトイレは構造的に耐震強度が強いらしい。狭い空間の四隅に柱があるためだ。
地震で部屋に隠れ場所がない時や、突然の核戦争勃発時には布団をかぶってトイレに逃げ込めばいいらしい。
 だから、備蓄とか貴重品は日ごろからトイレに置いておくと、けっこう有事の際に役立つかもしれない。詳しいことは各自調べてください。
 もし備蓄がなくても、とりあえず水だけは確保できる。水洗の水が豊富にある。
 いや、飲まな……

 ……でも、最悪の場合は飲むしかないな。