宇治を読んで訳すなどほざいて数か月、あれから私はほとんど読んでいなかった。
気力がなかったのだ。
恥ずかしい。
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訳しては無いのだけど、さいきんまたちみちみ読み返していて、おもしろい話があったので紹介しよう。
巻一の三「鬼に瘤(こぶ)取らるる事」である。
木こりのおじいさんは田舎で長閑(のどか)に暮らしていたが、顔に大きな瘤がありそれがいわゆるコンプレックスで、妻以外の人とはほぼ交わらずに静かに暮らしていた。ある日、嵐に襲われて下山できなくなってしまう。山の木立の穴で一晩明かすことにしたおじいさんはそこで衝撃的光景を目にする。
百鬼夜行がおじいさんの穴の周りを囲んで、酒宴をはじめたのだ。
この世ならざる光景におじいさんは慄くが、よくよく観察すると鬼たちは外見こそ気味が悪いものの、盛り上がりかたとかノリは人間の宴会とまったく同じで、なんだか楽しそう。でも怖いと言えば怖い。
おじいさんは恐怖に震えながらも、なんだか体がわなわなしてきて、今すぐ穴から出て踊ってやりたい気分になる。
気が狂ったのだろうか。
狂っていたのだろう。
おじいさんは鬼の輪の中へ躍り出て、舞い始めた。狂い咲くように激しく、けれど美しく、鬼たちは突然出てきたおじいさんにぎょっとしてビビったけど、舞を見るうちに愉快な気持ちになり、鬼の頭領もげらげら笑って楽しい時間を過ごした。
「おい、おやじ。次の宴会にも来い。もう一度舞ってくれ」
「はい、必ず来ますよ。今の踊りはちょっと竦んでしまってちゃんと舞えなかったから、次はもっと本気で、優美な舞をお見せしましょう」おじいさんもノリノリである。
だがそこで、一体の鬼が頭領に言った。
「親分、おやじはああ申しておりますが、しかしどうでしょうね、次は慄いて来ないんじゃないでしょうか。私だったら来ませんよ普通。人間てなそんなもんです」
「手前は人間じゃないだろうが」
「ままま、言葉のアヤ、ですよ、ははは、殺さないでください、睨まないで」
「ふん。だが手前の言うことも一理ある。ここはひとつ、あいつから大切なものを奪って、返してほしくば次も来いと言ってみろ」
子分の鬼は、おじいさんからその大きな瘤を取り上げた。痛みもなく盗むようにスッと積年の悩みの種だったその瘤を取ってしまった。
「返してほしかったら、次の酒宴にも来ることだ。絶対に来るんだぞ」
下山したおじいさんを見て、おばあさんは驚いた。瘤がない。
別人?いいえ、おじいさんです。
おじいさんの瘤が取れたことは立ちどころに噂になり、隣に住む第2の瘤おじさんは羨ましく思った。
おれも、おれも瘤を取ってほしい。
おじいさんからどうやって瘤を取ったのか聞いた隣のおじいさんは次の酒宴の日、鬼たちの元へ行った。ここで舞えば瘤を取ってくれる。そう信じて。
「さぁ舞えおやじ」
隣のおじいさんは懸命に舞った。だが、じつに不味い踊りだった。ひょろひょろして迫力に乏しく、柳が揺れているようだった。
「なんか、おやじ、腕が落ちたなぁ」
「この間のは偶然だったのかもしらん」
「なんかもう見ていて吐き気がする」
「瘤返すから、二度と来ないでよ」
投げつけられた瘤がおじいさんの頬にぶつかり、瘤は二つになってしまった。
まったく、やたらと他人を羨ましく思ってはいけない。
こういう話である。
これはかの有名な「こぶとりじいさん」の原話である。
なにがおもしろかったかって、第一の瘤じいさんが突如気が狂ったように踊りはじめたことだ。そのことについての説明は一切なく、わなわなしたと思ったらもう舞ってる。読者と同じように、鬼たちも驚いている。笑ってしまった。唐突すぎて。
そしてその鬼たちの愛しいことよ。人間と同じように宴会をして、知らない変なおじさんの登場に唖然とし、舞を楽しむ。ひそひそ会議をするところもおもしろい。これはどの話にも共通することだが、「会議」の場面はなんだって面白い。
彼らの鬼らしい残忍さ(大切なものであろう「瘤」を奪う)が人間であるおじいさんにとって幸福になり、おじいさんは鬼の期待を裏切って二度と酒宴には行かない。どっちが鬼だとも思える。
隣の瘤有りおじいさんが第一の瘤じいさんの立場を奪ったわけだが、それでも第一の瘤じいさんは二度と宴会へ行かなかっただろう。行けば瘤が返ってきてしまうからだ。
結局、うまく踊っても不味く踊っても瘤は返ってきたわけだが、隣のおじいさんも不憫だ。ただ羨ましく思っただけでこの仕打ち。ここまですることないだろう。
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たとえば近代文学は、なぜおじいさんは気が狂ったように踊りはじめたのか、瘤が奪われた後の心の葛藤、隣のおじいさんとの煩悶、などが書かれるのであって、人間そのものを浮き彫りにしようとする。おじいさんの瘤コンプレックスと深くからめて。
古文の中にあるのは、そういった人間や鬼一人一人の姿=「物」ではなく、鬼に瘤を取られたという出来事=「事」である。「物」と「事」そのどちらを書き出すかに近代文学であるかどうか分かれ目がある。
ここらであえて「事」に注目して小説を書くのも面白いかもしれない。
(実はそういう魂胆もあって、古文を読んでいる)
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高校生のとき、古文の勉強は退屈だったし、助動詞や助詞を覚えるのが大変だったし、主語がないので読みにくいし、本当に嫌いだった。
だけど今になって、社会人になってから、古文が楽しくなった。
問題を解かなくてよいという気楽さもあるけれど、わからない単語に出会ったときの新鮮な発見や、古文特有の言い回しがおもしろく、昔から紡がれた物語を千年近く経って今の私が読んでいるということにロマンを感じる。
いちいちおもしろいし、発見があって、教養が昂(たかぶ)る。知識が広がる。果てがない。
高校生のとき、つらかったけど古文を多少勉強していてよかったなぁと思います。
知識は誰にも奪われないし、骨身となって人生を豊かにしてくれる。
そういう種類の宝があることは、勉強してない人にはわからない。