蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

愛のことば

 してるの響きだけで強くなれる気がしたよ、ってスピッツ「チェリー」の有名すぎる歌詞のどこが好きかって、「強くなれる気がしたよ」の部分。

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 「強くなれる」と断言するのではなく、「気がした」となってるところがポイントで、ちょっと曖昧で頼りないけど信じたくもなっちゃう言葉の力に寄せる想いのリアリティがそこにあって、さらに、「よ」と感嘆詞が入ってることでなんとなく感謝の気持ちも込められているし、ほんとうにちょっと力強くなれたような説得力を帯びているのだからすごい。

 それに、やっぱり断言しないで、まずは言葉を受け止めているという状況から入っていく、なんというかその詩的な構造がいかにもスピッツらしく、草野マサムネらしい。

 などと、散文的に述べてみる。

 

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 実際、「愛してる」と言われただけで強くはなれない。

 最後に愛は勝つかもしれないけど、途中は何度も負けるだろう。

 何度も負けて負けて負けて負け続けて、最後に愛は勝つのだ。

 その最後にまでたどり着くための支えとなってくれるのが「愛」なのだ。

 「愛してる」という言葉はポパイのホウレン草のように力を与えてくれるのではなく、心を支えてくれる拠り所みたいなものなのだ。

 だからやっぱり、「強くなれる気がしたよ」の言葉は(正しいかどうかはともかく)リアルだ。

 で、「強くなれる気がしたよ」と歌えるところが優しくて、愛を感じる。

 

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 日本人って「愛してる」とはあまり言わないかもしれない。

 私は恋人に「愛してる」とか「好き」とかよく伝える。伝えた方が良いと思ってるからだ。

 直接的すぎる言葉は趣が無くて散文的でもある。

 それをどうこう批判するのではなくてここで書きたいのは、愛の伝え方はさまざまな手段があるよなと最近思うということだ。

 「気を付けて行ってらっしゃい」とか「元気でね」とか「手洗いするんだよ」とか何気なく相手を心配する言葉も愛なんじゃないか。

 「今日は月がとても綺麗だったよ」とか「あそこの通りの桜が咲いていたよ」とか「この猫の画像可愛いんだよ」って喜びを相手に共有してあげる報告も愛のひとつだ。

 それに気付くと、日本人は直截的に言わないだけで、愛してるって感情はちゃんと持ってて、分け与えてるんだな、なんて見方もできる。

 もちろん、愛なんて重くて凄いものが宿っていない言葉もあるだろうけど、身近な人の発するそうした言葉にはなにか愛が宿っているのではないか、そう信じたい。

 

 小さくても、目に見えなくても、心にある視点をすこしずらすだけで新しく見えてきたり、気付けることがある。

 

 これを読んでくださった皆さんの健やかな日々を祈って。