ときどき思うのだ。恋人が死んだらどうしよう、と。
たとえば病院で恋人が死んでしまったら。
私は恋人の手が冷たくなるまで声をかけ続け、何度も愛してると伝え、頬に、おでこに、できればくちびるに、くちづけをするだろう。
灰になった恋人を夢遊病の気持ちで墓に入れ、私は思い出がそこかしこに染み込んだ街に、私たちの家に帰るのだ。
恋人がいないはずの虚空を見つめ、ないはずの気配を隣の部屋に感じてドアを開けるかもしれない。朝だったら、いつものくせでパンを2枚焼くかもしれない。目玉焼きを2個焼き、紅茶を2人前作ってしまうのだ。皿に用意し、テレビを点けて、紅茶をそそぎ、二人分の朝食を並べ、ソファの隣の虚空に気付いた時、私は受け入れがたい喪失に沈み込むだろう。
もう二度と朝なんて来なくていい。そう思うのだ。
遺品の服を、はたして私はどうすればいいだろう?買ってやった指輪を、ネックレスを、ペアウォッチを、どうすればいいだろう?読みかけの本を、楽しみにとっていたアイスクリームを、使いけかけの化粧水を、ぐしゃぐしゃになったベッドを、彼女が作って冷凍保存しておいてくれた大根の煮物を、私はどうすればいいだろう?
どうすればいい、というか、いったい何ができるのだろう。
余りにも無力。
私はただ虚無の部屋に佇んで、いつの間にか黄昏になって、時計が止まっていることにも気付かないまま、茫然と日々に呑まれていく。
たぶんもうこの部屋にも街にもいられなくなって、なんならよく遊んだ東京の街にも出かけられなくなって、実家に帰るか、それともどこか遠い国へ行ってしまうだろう。それでもずっと、離れられないだろう。なにもかもから。
彼女と行こうと約束していた北海道とか、北陸とか、毎年行こうって約束した沖縄の離島とか、海外だったら行ってみたかったトルコとかフランスとかモルディブとか……そういったところを巡る旅に出るだろう。
どこへも行けないのに。
ときどきそんなことを考えて、泣きそうになる。
どうしよう、と思う。
怖い、と思う。
だけどもっと怖いことがある。
それは、私が死んで、彼女が残されることだ。
深く悲しみ、どんどん痩せて、抜け殻のようになって日々に呑まれていく恋人を、私は霊魂になってどんな顔して見ていればいいのか。霊魂は顔がないだろうけど。
恋人の深い悲しみを考えると、ぞっとする。好きな人を傷つけたくない。そのほうがよっぽど悲しくて恐ろしいことなのだ。
この感情って、言葉にしてしまえば安っぽくなってしまうのだけど、愛なんじゃないかって思う。
『十三月怪談』(川上未映子)はそのようなかたちの「愛」を、「感情」を、怪談という骨組みを用いて(あるいは破壊して)書かれた短編小説だ。
私が思うに優れた小説とは百年先も千年先も読み継がれるものではなく、いまこの瞬間「自分の物語」として読めるかどうかだ。
まるで自分のことを書かれているかのような感覚になって、読後には内容にかかわらず、救済されたようなすがすがしい気持ちになる。
『十三月怪談』は優れた小説だ。
この物語の主人公は、病気で死んでしまい、残された夫の人生を部屋の隅から見守る。
霊魂的な存在としてのぼんやりとした描写に説得力はあまりないかもしれないけど、臨場感はある。しかしそれで充分だ。
文体が心を揺さぶり、言葉が強く訴えかけてくる。的確に置かれた句読点、長い一文、リズム、それらが物凄い勢いで、情報と言うよりか熱量みたいにして、身体に、心に流れ込んでくる。
主人公も上述の私と同じようなことを考えている。
残された夫のことを考えてたまらない気持ちになる。そして実際にそれを目の当たりにして、霊魂的に圧し潰されていく。
最後にはなにが真実であったのかわからなくなるような終わり方をするのだけど、それすらもどうだってよくなるような清々しさと、温もりがいつまでも残る。
愛情というものに温度があるのなら、こんな温もりなのだろう。
真実なんて、感じたことがすべてなんだ。
主人公の意識が消えていく描写が好きだ。
言葉のろれつが回らなくなるように、漢字が紐解かれて平仮名になり眠りに落ちていく時のようなまどろみに似た滅裂な文章になっていく。意識がなくなっていく感じがすごくわかる。自我を失うってこういうことなんだなって思う。だけど、すべてが平仮名になって、意識が途切れそうになっても、ただ夫の名前だけが漢字で表記されているのを読んで、私はむせび泣いた。
これは愛の話だ。