キッチンの包丁とか洗剤とか仕舞ってある流しの下の収納扉に、吸盤で付くタイプのタオル掛けを吸着させているのだが、購入してからおよそ半年、吸着力の低下が深刻化して5~10分に一度落下するようになり、吸盤は落ちては床で仰天し懶(ものう)い顔で「はよ吸着させてくれんか」と自身ではなんの努力もしないで私と恋人を見つめてる有様で、我々をほとほと困らせている。
なんだその不遜な態度は。100円ショップで陳列されていたくせに。
あの頃はもう少しきりっとした顔つきをしていた。吸盤はかたく、濁りなく、つややかだった。今ではぼんやりと歪んでざらざらしている。
直してしばらくすると「がたっ」と情けない音がキッチンから。見ると仰天してる吸盤。やれやれ。うんざりしてくる。
怠惰な従業員を教育しなければならないように、すぐ落ちる吸盤もなんとかせねばならない。これも主人(オーナー)の務めなのだ。
吸盤の吸着面にゴミがあると空気が入ってくっつきにくくなるであろうことは、義務教育を修了した者なら調べないでもわかる。キッチンペーパーでゴミをはらい、吸着させた。
しばらくはそれで機嫌良さそうにしているのだが、ふと見るとやはり落ちている。
吸着面を濡らすと良いかもしれないと思い立ち(PC界隈の「とりあえず再起動」と同じで、「とりあえず濡らしてみる」という理屈のない解決案がはやい段階で存在するのが吸盤不具合界隈の特徴だ)軽く濡らして扉に叩きつけた。
「ぎゅぽっ」と力の入った音がして、吸盤は扉に付いたが、一瞬のやる気もむなしく、わりに早く落下した。
調べてみると、吸盤を濡らすのは「NG」らしい。
時間の経過とともに水が蒸発して壁面と吸盤の間に隙間ができて、結局落ちるのだ。
NHKが言うのだからそうなのだろう。
上記サイトを見ると、80度前後の湯に5~6分浸けておくと吸着力が復活するとあったので、さっそく実践した。
鍋に湯を沸かすのは面倒なので、薬缶に沸かしてシンクに置いた吸盤にじゃぶじゃぶ熱湯を注いでやった。シンクが熱膨張してベゴン、と強(したた)かに鳴った。吸盤は甘んじて熱湯をかぶっていた。
吸盤を乾かし、扉に押し付けたが、しかし、ダメだった。
この方法ではダメみたいだ。面倒だが鍋に湯を沸かして吸盤を浸すしかないだろう。
80度前後という温度もよくわからないので、とりあえず沸騰したらアルミ鍋に吸盤を沈めた。気泡と湯気の中に沈み歪む吸盤はなんだか、そういう「刑」に処されているようであった。怠惰の罰である。
弱火にして15分くらいコトコト煮てやった。もしかして塩とか酒とか加えた方が良かっただろうか?
湯から引き上げると、吸盤が明らかに歪んでいた。
熱すぎたのだ。
その歪み方は、なんていうか、表情にして「苦悶」と名付けられるそれであった。
これはもうダメかもしれない。
しかし、ダメもとで付けてみたところ、くっついた。
しかも30分くらいはそのままくっついていた。
ということは結局落ちてしまったのだけど、いちおう少しの回復は見込めたようだった。
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その後も吸盤は落ち続けた。
私は物理的な解決を諦め、精神的なプレッシャを与える作戦に切り替えた。
「これで落ちるようでは、年は越せても君がどうなるか知れたものじゃないねぇ」
「ほんの1メートルのところに、君にぴったりのゴミ箱を用意したんだ。ここからよく見えるだろう?」
「情けないね」
「君、なにができるの?」
「よくやってきたとはおもうよ。だけど君はまだ引退して良い年齢じゃない。もっと僕に期待をさせてくれよ」
「死ねば?」
ハラスメントど真ん中の発言を吸盤に浴びせかけた。
冗談みたいだが、これが効く。
ぜんぜん落ちなくなった。
数時間に一回は落ちてしまうのだけど、そのたびに上述のプレッシャを与えて吸盤を引き締めてやるのだ。不思議なことに、だんだん持続時間が伸びていく。
立て続けに落ちたときは、多少の殴打も加える。何度言葉で言ってもわからないようでは畜生も同然。肉体で覚えさせねばならない。犬と同じだ。言葉のわからない相手への躾は威厳と痛みを伴わねば成せない。許せ。これはお前の為でもあるんだ。
このようにして吸盤は元の力を戻しつつあった。
実家に帰省する前にもプレッシャを与えた。
「しばらく留守にするけどその間に落ちたら……わかるね?」
吸盤は沈むように頷いたように見えた。
もうその表情に怠惰は見て取れない。
この帰省は最後の試練なんだ。つらいだろうが頑張ってくれ。頼むぞ。できればお前を捨てたくはないんだ。せめて一年は頑張ってくれ。信じてるぞ。
そうして私は帰省し、二日間家を空けた。
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実家から戻った私は、薄暗いキッチンで決意した。
今年はまず、新しい吸盤を買おう、と。