蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

三年目の真実

会人三年目になった。

三年目の初日は怒濤であった。

人事異動でさまざな問い合わせが入り、自分のも含めていくつかの作業ミスが発覚し、フォローし合い、私個人で抱える問題が退勤間際に発覚したりと、悪い意味でお腹いっぱいの一日だった。

 

三年目になった。

この一年は、転職するかどうか、ほんとうにこれから先の人生どうしたいのかよく考えなきゃいけない。うすうす感じていたものをはっきりさせなくてはならない。

これが自分の人生であることを認めて、自分だけじゃなくてパートナーの為にも将来を設計しなくてはならないし、充実した気持ちを持ちたいし、さまざまなバランスを考えてできるだけ犠牲を押さえ、自分にとって大切なものはなにか、さまざまなことをはっきりさせて、ほんとうに大人にならなければならないのだ。

 

いまの仕事は本当につまらなくて、これに一生捧げるのはなんか違う気がする、と矮小な存在であるにもかかわらず生意気にも違和感を抱いている。

「でも私だって、いまの仕事の分野に興味があるわけじゃないし、たとえ転職したとしてもその仕事が楽しいとは限らないよ。私は転職して職場環境は良くなったけど、楽しいわけじゃない」と恋人は言う。

そう聞くと、じゃあ人生なんてそんなもんかもしれないな、と諦めがつく。

いや、諦めがつくのではなく、「諦めることを善しとしてもいい」ふうに思えるのだ。

でもそれでいいのか?

 

 

今の仕事を選んだのは、就活生当時、大嫌いな父の会社を継がされそうになっていたからだ。

父の仕事は貿易と営業と卸だったので、それとはまったく異なる分野を就職では選んだ。とにかく反骨して継がない意志を見せ、「あなたには従わない」アピールをしていたのだ。会社を継がない(継げない)のならなんだってよかったし、反骨にはやる気に満ちていた。

そういうモチベーションだから、父が今も生きていれば、この分野でもモリモリやる気が湧いていただろう。

それがまさか、就職の一か月前に、酔っぱらって階段から落ちて死ぬなんて思わなかったんだ。

 

「反骨」のモチベーションがなくなってから、就職した二年前の最初の日から、私はやる気を失っていた。反骨すべき対象はとっくに骨になり、田舎の墓に埋まってしまった。もろくてくすんだ骨だった。

 

 

そういうモチベーションで仕事を選んではいけないし、結局のところ、父親のせいにしたり、良くも悪くも(9割悪い)父親という存在ありきで行動し、それがダラダラ続いているのが情けない。

もうこういうのやめたい。

父は死んでしまった。死んだ父をどうやって殺せばいいのだろう。

 

 

 

私はここからの一年ではっきりさせなくてはならない、と思う。

置かれた場所で咲くのか、歩く花になるのか。

 

 

 

 

究極は、働かずして優雅に暮らしたい。駐車場などを経営したい。そう思うのもほどほどにしなければならない。