蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

なにげない一瞬がなによりも尊い

こ一年くらいのカメラフォルダは、料理の写真と実家の猫の写真で埋め尽くされている。

2年前まで遡るとデートをしている写真や恋人の写真が出てくるようになるが、ここ最近はほとんどお互いの写真は見当たらない。

一緒に暮らすようになって写真を撮らなくなってしまったのだ。

それは愛情が薄れていくからというわけではなくて、たぶんお互いの存在が身近に当たり前になってしまったからだろう。

コロナのせいで出掛けることもなく休日はほとんど家で過ごし、せいぜい近所の小さなレストランにランチを食べに行くくらいが外出になっていることも相まって、彼女の写真どころか景色の写真も撮っていない。

フォルダだけ見ていると記憶がすっぽり抜け落ちてしまったようでもあるし、恋人と別れて白黒の世界を生きているようにも見える。かつての恋人の写真を捨てられないまま未練にすがってなんとか生きている。そう言われてもおかしくない。

 

だから昨日は、なにも特別なことなんてなかったけど写真を撮った。

家の中の写真。二人で撮った写真。恋人はあたらしい眼鏡を買って、それをかけて写真を撮った。

あらためて二人で自撮りをするとなんだかくすぐったい気がして笑えた。

なぜだかわからないけど笑ってしまえるうちに写真を残せてよかった。もしかしたらもっと時間が経った頃、私たちは笑いもせずお互いの距離を少し空けているかもしれないのだから。そうならないようにしたいけど。

私は一年前に比べると髭が濃くなって、肌の張りはますます失われ、白髪が増えていた。ついでに太ってもいる。

ほら穴に落ちるような速度で歳を取っている。年相応なのだと思いたい。

そういうのも写真で比べればわかる。

 

いつかプリントアウトしてちゃんとアルバムに残そうと思った。

実家のアルバムを見てみると背景に写り込んだ家の間取りとかあの頃飾っていた絵とかオモチャで記憶がよみがえって、あたたかな郷愁を覚えたのだ。

データではなく紙の本、アルバムにすることでしか残せない感情がある。きっと。

自分が子どもの頃の何気ない瞬間や日常の写真が残っているのはなんだか嬉しい。そう思えるのは私が大人になって、ほんの少しだけ親の感情とか感謝とか気付けるようになったからだからだろうかわからないけど、なにかを大切に残しておくってとにかく尊くて優しい感情なのだ。

わけもわからず笑っている写真だって、数年後に見たらこのときはまだ若いねなんて、懐かしく優しい気持ちになれるかもしれない。