妻の体調も良くなってきていて、我が家におけるコロナの猛威にも終わりが見えてきた。
半液体以外の食べ物も嚥下できるようになってから、元気を取り戻して、妻は一日中本を読んだり動画を見たり、洗濯物をしたりしている。かえって退屈そうにすら見える。
まぁ、病に侵されているよりずっといいだろう。
ここ最近、基本的には支援物資で届いたレトルト食品を食べていた。
ただ支援はたいへんありがたいのだけど、さすがに何日もレトルトやインスタントだと飽きてくるので、私は比較的に元気だったこともあり(だるさはあったものの)、ときどき味噌汁くらいは作るようにしていた。
冷蔵庫にあるものを放り込んだ、具沢山のお味噌汁だ。
これは土井義晴先生の『一汁一菜でよいという提案』に影響を受けたもので、この書籍に関連する動画を見て私も実践するようになったのだ。
見栄えを気にしなくてもよく、味噌汁は煮立たせてはいけないとか具を入れる順番とかも考えなくていいこの調理法、というか、考え方は、料理がグッと自分のものになる感じがして、料理という営みはそもそも楽しくて、自分のための行為だったという大切なことを思い出させてくれる。
具沢山であれば栄養はもちろんあるし、栄養素が焼けて崩壊することもない。お味噌汁は温かく、美味しい、健やかな料理なのだ。
疲れていてもすぐに作れて労力はほとんどかからないし、洗い物も少なく済む。食欲が無くてもこれなら無理なく食べられる。テキトーに作っても見栄えはなんとかなる。具沢山なほど御馳走らしくもなる。
健やかなお味噌汁があれば、一汁一菜でもいい。
この考え方が「家事としての料理」の時々感じる重さや「ちゃんとしたものを作って食べなければいけない」善を唱える健康志向の自分から解放してくれるのだ。
そして実践して食べてみると、この一汁一菜でちょうと満足ができる。
作って、食べて、満たされる。
ああ、これでよかったんだ。
料理という行為はある種のメンタルケアな部分がありながら、失敗したときの憂鬱や疲労の蓄積などにより、心の負担にもなりうる。
でもできれば、料理をした後に気分良くいたいものだ。
自分のために行える行為として料理は自分への愛着を育めると思うが、それは失敗をしなかったときにだけ与えられるものであり、どの料理にも失敗のリスクは常に宿っている。
そんな中でお味噌汁はよっぽど奇をてらわなければ失敗も少ないし、お手軽でありながら栄養もあってきっちり一品になれるのだから、とっても優秀だ。
落ち込んだり、傷ついたり、閉塞感のなかにいるときほど、温かい食べ物が沁みる。
これからもお味噌汁を大切にしようと思う。
それにしても土井先生の包丁、よく切れるなぁ。