近所の八百屋が潰れるらしい。
もうどうでもよくなった店主が、店にあるすべての野菜や果物や、味噌、インスタント麺、使い道のない置き物にいたるまで、軒並み3割引とか半額にして、ほとんど配布するようなかたちで叩き売りしているらしい。
普段からよく使っていた八百屋なのでなくなるのは寂しいが、値引きにはあやかろう。
行ってみると、噂どおり、卵以外のなにもかもが格安で販売されている。
しかし、野菜はまだ新鮮だけど、どこか所在なさげに葉の先を萎れさせていて、店主の目の周りも赤く焼けていて尋常ではなかった。店主はロックが好きで、店内はいつもクイーンとかAC/DCがかかっているのだけど、この日はプログレが流れていてそれもまた異様な雰囲気に拍車をかけていた。ああ、この店はまもなく終えるのだ。実感せざるを得ない。
店頭で、野菜と一緒に、柑橘を買った。
商店街まで甘い香りを漂わせていた、はっさくだ。
家に持ち帰り、テーブルの上に置いてみると、それだけで部屋の中が明るくなったような気がした。
胸いっぱいにお日様が輝くような香りが染み込み、うっとりと空を眺めたくなった。
持ってみるとずっしりしていて、なにか脈動のようなものを感じる。なかにある水分が外へ向けて弾き出ようとしている力と、分厚い皮が抑え込もうとする力が拮抗している。そんな緊張感がある。
なんて生命力のある果物だろう。
それがいま、2個もあるのだ。
私は何だか嬉しくなって、妻にも、匂いを嗅いだり、持ってみたり、話しかけてみることを勧めた。
「ふん、いいにおいね。なんか作ったら教えてね」
妻は1秒くらいで興味を失ったらしく、ベッドへ潜り込み、昼寝をはじめた。
妻はいつも「結果」だけを求めている。
はっさくという柑橘は、八朔、つまり「八月朔日(ついたち)」に食べられるようになるからその名がつけられたが、実際の旬は春から初夏にかけてらしい。なんなんだ。
皮が分厚くて食べづらいし、実も苦い印象があるので、砂糖漬けにすることにした。
作り方は拍子抜けするくらい簡単だ。分厚い皮を剥き、身を包む薄皮も全部剥いて瓶に詰め、砂糖水を煮て、漬けるだけだ。これで次の日には食べられるようになる。
この皮を剥く作業が簡単とはいえ面倒臭いのだが、これもまた豊かな時間の使い方ではないか。
缶詰を買ったり、はっさくゼリーなんかを買えば当然美味しいし手間もないのだけど、こうして手を動かして作った方が、豊かだと私は思う。買うのが悪なのではなく、自ら選択をしてわざわざ作っているという点が、豊かなのだ。
これはすべての家庭料理に言えることだ。ちゃんとしたものを作れなくても、なんかそれっぽいものでもいいから作ってみると、なんだか豊かな気持ちになるものだ。
外食やコンビニのご飯も便利だし美味しいし、お金がかかる分そっちのほうが豊かと言えるかもしれないけれど、なんだろう、「生きてるぞ」感が料理をしていると得られる気がする。
とかなんとか偉そうにいってるけど、こんな瓶詰めを作るのなんて半年に一回くらいで、本当の豊かさを知っている人の足元にも及ばない、ごっこ遊びの延長線上でしかない。
粗熱をとって冷蔵庫に入れておけば2〜3週間はもつらしい。ヨーグルトにかけたり、そのまま食べたり、水で割って飲んだりして、季節を楽しもう。
次の日、味見をしてみたら、大成功だった。
甘いシロップのおかげで、はっさくの酸味と苦味がちょうどよくなってて、噛みしめるたびに実がぷちっと弾けて、甘酸っぱい汁がじゅわりと口の中を幸せにする。
「できたもの食べると、わたしも作ればよかったと思うんだよな〜」と結果主義の妻が言う。
でも、寝て起きたらこれができているというのも確かな幸せであり、豊かさのひとつだと私は思う。