今年は初めて大晦日に恋人と一緒に過ごす。
今までは離れて暮らしていたから、大晦日はそれぞれの実家で過ごしていた。
紅白歌合戦を観ながらLINEで実況したり、なにを食べてるか、なにを飲んでるか、今日はなにをしたのか、明日はなにをするのか、誰と会うのか、などとチマチマiPhone画面を打って、会話していた。
「そのうち一緒に暮らしてさ、一緒に紅白観たいね」ってよく話していた。
今日(大晦日)はこのブログを書き終わったら洗濯物を干し、ホットケーキを焼き、午後はゲームをしたり映画を観たり、本を読んだり、とにかくグダグダして、夕飯には蕎麦を茹でて、かき揚げ天を揚げるつもりだ。
お菓子もたくさん買ってあるからそれを食べながら紅白を観るのだ。
恋人と。
2020年は大変なことがたくさんあった年だった。
世間の様相が我が身に降りかかるように思えて絶望的な気持ちになったこともあった。
もうダメなんじゃないか。これから先の人生楽しいことなんて何もないだろうし、苦労するだけで甘い汁は枯れていて、ただ身が朽ちて呆けて糞尿を垂れ流して死ぬだけなんだ。そう思うことしばしばであった。
それは、世界の絶望というマクロな問題が、私個人のミクロな心に侵食してしまったからだ。精神疾患を抱える人や、心が不安定な感受性の強い人にとっては、いつにも増してつらい一年だったろう。
だけど、こんな一年だったけど、楽しいことももちろんあったし、素晴らしい出来事もいくつかあった。
小さな幸せはいつも身の回りにあって、それを見つけて喜んだり共有できる機会は多かった。
ずっと家にいたからこそ、そういったことに気付けた。
なんていうか、「だからこそ」の一年だった。
嫌な側面の影響を人は受けやすい。
だからネットニュースで毎日のように誰かが炎上しているし、憎悪は増幅して社会の分断が生まれるのだ。
小さな幸せや笑いは忘れられやすく、一時の麻酔にもならないかもしれない。
だからこそ、私は小さな幸せを受け止めて、大事にしようとした一年だった。
家の掃除は行き届き、洗濯物はよく乾き、布団はやわらかく、楽器がすぐそばにあって、恋人がソファに座り、本が手の届く位置に並べられ、ほとんど毎日ブログを書くことができて、私は健康だった。
これ以上のなにがいるだろう。
恋人と過ごす大晦日がきた。
ずっと昔からこの日を迎えてきたような気がするし、ずっとこの日を待っていたような気もする。
生きててよかったと思える。
小さな幸せを集めて集めて大切にして、それを原動力にして動いた結果が今の暮らしなんだ。
私たちの生活は回り、それが人生の回転となって、私たちの世界を動かしている。
その原動力は小さな幸せや、光の粒みたいな希望だ。
人は絶望だけではどこにも行けないのだ。
たとえ絶望的な状況に陥って、もう死のうかと思えたときでも、わずかな光を目敏く集めて温もりを愛したい。
私にはそれができる。恋人といればどこへだって歩いて行ける。そう思う。強く。
↓
一年間愚文にお付き合いいただきありがとうございました。
来年もよろしくお願いします!