蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

止まった時間のなかで

iPhoneのキャリアメールが使えなくなってから一年半、さいきん管理の杜撰さを痛感していることもあって、自分なりに調べて、原因を究明し、事態を修復しようと努めた。

Googleで調べ、いくつかのページを巡って原因が判明、原因がわかれば解決方法も自ずと見えてきて、30分ほどのトライでキャリアメールの復活に成功した。

止まっていた一年半の時間がたった30分で直るのなら、最初から調べてやっておけばよかったのだ。

 

どこかのサーバで人知れず溜まっていたメールがおよそ1500件、ごそっと届いた。なんだかそれは、溜まっていた耳垢を取り出したときのような一種の爽快感を含んでいた。風通しが良くなり、小さな虫の音まで聴こえてきそうだった。

さて、1500件、なにが届いているだろう。

もしかして古い友人から「よう、久しぶり。こんどメシ行かん?」って届いている可能性がある(たいていマルチの勧誘目的である)。あるいは遠い親戚から「元気かえ?」と連絡が来ているかもしれない(たいてい死にかけの老婆を伴っている)。いずれにせよ一年半も放置していたから今更返信しても遅いだろう。

 

あまり期待はしていなかったが、案の定、1500件すべてが広告と迷惑メールだった。

むかしLINEコイン欲しさに登録した「たまごクラブ」やこれまたLINEコイン欲しさに偽って登録した女性用サロンの無料会報が日毎に届いているばかりで、私とコミュニケーションを取りたくて純粋に連絡をよこしたメールは一通もなかった。どれもこれも一方的で煽情的な広告と求人情報ばかりで、こちらの意志などおかまいなしだ。

 

 

メールが復活したことでさらに過去のメールにさかのぼることができるようになった。

2018年、2017年、2016年……

2014年までさかのぼって確認ができた。

不思議なことに、古くなればなるほどとても自分が送ったメールとは思えず、そこにしたためられたメールのやりとりたちはどこか違う世界の、違う時代の、ひとりの少年の秘密を見ているようだった。

なんだか今より落ち着きがなくて私のみならず相手も浮足立っている文体だ。なんでだろう、たぶんメールしてるだけで楽しかったのだろう。今読むとなにが面白くて(笑)を連発しているのかわからない。

ああ、意見がすれ違っている。このあとどうやって仲直りしたんだっけな。

当時の元カノとのメールも残っていてそれがなんだか甘酸っぱくて微笑ましかった。そう思える過去は貴重だと思う。

 

メールはこうして残るのだな。

遡って読んでいるときの気持ちは、手紙を読み返すときと同じ気持ちだ。

あたたかくて、優しくなれる。暖炉のように、賢い大型犬のように。

言葉は残ってしまう。だから愛しい。文字に宿る時間は新鮮さを残して止まっている。大昔の詩がいまも心に響くことがあるのはそういうわけで、手紙もメールも文字である以上、その性質は変わらない。

 

過去のメールの中で私は(笑)い、ときには(泣)き、ある場面ではRe:Re:Reといくつも返信を重ねて心通わそうと努力をし、ある日には意見を戦わせ、ある夜には誰かを愛しく思っていた。

飾り気のないその文章に宿る感情は本物で、そして止まった時間の中で永遠なのだった。

 

牛肉のある生活

々は福沢諭吉の不敵な表情を前に硬直していた。

恋人の会社の羽振りがよく、全社員に一万円が配られたのだ。

 

これをどうするか。恋人は二人のために使おう、と言った。

我々は議論を重ねた。

来る日も来る日も、雨の日も、風の日も、電車の中でも、散歩しながらも、ベッドの中でも、口角泡を飛ばして一万円の処遇について意見を戦わせた。

 

そうして、我々はこの一万円で、良い肉を食べることに決めた。

 

arimeiro.hatenablog.com

 

そんで、昨日食べた。

 

本来はちょっといい焼肉屋に行って死ぬまで喰らうはずだったのだが、本当に良い焼肉屋というものは予算一万円で収まるものではなかったし、すこしランク下の(それでも良いランクの)焼肉屋はどこも営業が20時までと限られているために時間の融通がきかなくて、予約が取れなかったので、家で焼き肉パーティを開いた。

でもお家焼肉も楽しかったし、自分たちのペースで食べられたし、余った肉は後日夕食に回せるので経済的にも良かった。

 

────────

 

我々は普段、牛肉を買えない。

節約しているからだ。

安売りの大量に入っている部位不問の豚肉や、鶏もも肉(もちろん消費期限がギリギリに迫る値引き品だ)を週替わりで買って、冷凍し、ちびちび使っている。牛肉は買えない。

たまにひき肉を買うけど、それも合いびき肉だ。

「牛肉って脂っこいんだよね。おれは豚肉の方が好き」

「私も。豚肉はさぁ、脂が甘くておいしいんだよね。鶏肉もさっぱりしてるし」

「牛肉はあえて選んでいないみたいなところある」

「牛肉が安くても豚肉を買う」

そのようなことをあえて牛肉売り場の前で声を大にしてのたまい、横目できつく牛肉たちを睨みつけ、「けっ」とか「偉そうに」と悪態ついてなんとか自尊心を保っている。

 

こんな生活でいいわけがない。

贅沢をするときは贅沢をするべきだ。

 

「良い焼肉屋へ行くのもいいけど、スーパーで一万円以内で牛肉買って、余ったのをその週の食事に回せればいちばん平和的なんじゃないか。経済なんじゃないか。みんながハッピーなんじゃないか」

とはいえ、節約が身に付いている我々は貧乏性な性質を拭えず、経済を優先して「節約しつつ贅沢をする」結論に至った。

 

普段横目で虐げている牛肉たちの正面に立つと、背中から変な汗が出た。恋人はすこし震えていた。

「なにを、どれくらい、買えばいいのだろう」彼女は指先で髪をいじる。緊張していると出る悪い癖だ。

「堂々としていればいいんだ」そう言ったものの、私もどれを買えばいいかわからない。

育ちとか教養はこういうところで出てしまうのだ。みっともない。

およそ10分は牛肉の前で思案しただろうか。ああでもない、こうでもない、週間の肉消費計画を立て、どの部位がどのような味がするのか調べ、議論は最後には「どういった心づもりで今回肉を食べたいのか」という哲学的な命題にまで発展した。(その答えは「感謝」と「褒美」だった)

結局焼き肉用の「お得パック」みたいなものと、赤身のお肉、それから切り落としを週間で使う食糧用に購入し、やれやれと汗を拭って家へ帰った。

早速今夜焼く用の肉とまだ焼かない肉を仕分け、焼かないものは冷凍庫へ入れ、今夜食べる用は冷蔵庫に入れた。

 

 

牛肉を使った料理をしてこなかったから、うまく今週を回せるのか不安だ。

その晩、焼肉をやったら部屋が焼肉のにおいになってしまって、もうずっとにおいが取れない。

美味しかったけど、我々は牛肉と心を通わし、幸せになれるのか、すこし自信がない。

すべては私に非があります。

画館を出てiPhoneの電源を入れると、充電が3パーになってた。

おかしい。

私は67パーで電源を落としたのに、電気は3時間余りのうちに虚空へ溶けたらしい。電化製品というものは電源を入れる際に最も電力を消費するので、電源を入れたときに64パーセント失われたのだろう。

なんにせよ、おかしい。

 

私のiPhone6sはとっくに寿命を越えていて、100%充電しても、フル稼働では30分と保たないから、普段はエヴァンゲリオンみたいに充電をし続けて使っている。

3パーか、と黄昏ている間にも2パーになっており、目を離した隙にも1パーにならんとしている。私には調べたいことがいくつかあったし、このあと行きたい街もあった。このままではやばい。

電気屋へ立ち寄りてモバイルバッテリーを買うことにした。

 

 

モバイルバッテリーを選んでいると、商店の小僧が寄って来て何かお探しか、と問うた。

私は上記の旨を伝えた。しかも加えて、softbankからアカウントを停止させられておりキャリアメールがここ1年半ほど受信できなくなっていること(送信もできない)、ソフトバンクアカウントのパスワードを亡失したためアカウント復帰できないこと、ソフトバンクの店へ行けばどうにかなるらしいが面倒くさいしどうでもいいのでほっといてること、端末代は払い終わっているのに月々の通信料がやたら高いことなど種々の問題を話したところ、小僧はドン引き、今すぐiPhoneを替えましょう、ということになった。

そんなつもりはなかったのだが、この際だし、小僧が言うには30分ほどですべての手続きは終わると言うから、機種交換することにした。ついでに携帯会社も変えることにした。

 

 

結果からお話しすると、私はiPhoneも携帯会社も変更ができなかった。

1時間半をただただ浪費して、モバイルバッテリーも変えないまま電気屋を後にすることになる。

 

 

小僧に紹介された仲介はauの方で、即座にカウンセリングを開始。店員はふむふむ、となにかメモを取りながら、ときおり頷いたり、眉を顰めたり、忙しそうに私のとりとめもない種々の問題を聞いてくれた。そうして最初から決まっていたかのように彼は言った。

「お客様の場合ですと、auのこのプランがどこよりも安くなりますね」

そらアンタがauの回し者だからな、とは突っ込まず、「じゃあそれでお願いします」と二つ返事した。

どうだってよかったのだ。

彼はどこがどう安くなるのか、今後どういった徳があるのか説明してくれた。今よりも安くなるらしい、ということだけがはっきりした。でも細かいことはどうでもいい。

私にとって今最も大切なのは、瀕死のiPhoneを充電してやることだったのだ。

このあとiPhoneの情報を調べるために、お店の電気で充電させてくれることになった。このとき私は本来の目的を達成していたので、ケータイを替えるのもなんかぜんぶどうだってよくなりつつあった。

 

手続きのために免許証を提示し、契約書に住所氏名を記入した。

「お客様、免許証の御住所と異なるようですが」

「あ、すんません。引っ越したんです」

「現在の御住所が書かれた保険証などはお持ちですか?」

「ありませんね」

「あ……」

昨年7月に引っ越してから私はそのへんの手続きを蔑ろにし、その瞬間まで手続きが必要であることを忘れていたのだ。

結局、保険証にテープを貼って、新しい住所を書き直したのだが、それでよかったのかはわからない。

 

現在softbankと契約している内容がなんなのか私にはわからず、月々いくらかかっているのかもわからず(毎月決まった日に口座からいくらかの金が減っていることには気付いている)、月々のデータ量もわからず、とにかく私にはわからないことだらけだった。

店員に指示されるまま調べたのだが、MySoftbank(ソフトバンクユーザーが月々のデータ量などを確認できるサイト)のパスワードを失念していたので調べようもなく、また、softbankと契約した際に登録したパスワードも失念していたので(そんなものがあったことすら忘れていた)、彼は頭を抱えてしまった。

私の管理はあまりにも杜撰だった。

申し訳ないが、でも、売りつけようとするのは店員の方だから頑張ってほしい。

私はこういった杜撰さに頭を抱える店員に、暗に「25にもなろうという成人男性がここまで杜撰な管理で恥ずかしくないのかボケ」と言われているように感じてたので、たいへん不機嫌だった。

今思えば、店員が頭を抱えるのも納得だ。自分でも情けない。

 

 

携帯会社を替える際には、現在契約している会社に電話をかけ、予約番号というものを入手しなければならないらしい。

「いろいろとどうしようもないけれど、この予約番号さえ手に入ればどうにでもなります。そしてこれは必ず手に入ります」

言われるがまま、softbankに電話をかけた。

これが、繋がらない。

「30分で終わる」と言われていたものがすでに1時間以上経過し、加えて空腹と不機嫌が重なって、店員と私の間は恐々としていた。私は本を読みながら繋がるのを待った。本は良い。私の心を満たしてくれる。

ようやくオペレーターに繋がった。

「予約番号を欲しい」

「ただいま発行いたします」とスムースなやり取り。ここまではよかった。

しかし、オペレーターが私の電話番号と契約を調べたところ、「予約番号をこの場では発行できない」ことがわかった。

なぜか?

契約者が、母だったからである。

 

iPhone6sに切り替えた当時、なんらかの事情があって、契約は母、支払いは私、になっていたのだ。そんなこと忘れてるに決まってる。なんだそれ。

「ご契約者様がおりませんと予約番号は発行いたしかねます」オペレーターは丁寧な口調で、申し訳なさそうにそう言った。

「どうにかなりませんか」

「どうにもなりません」申し訳なさそうだけど、けっこうキリっと断られる。本当にダメみたいだ。

私はひとつ気になったことを訊いてみた。

「契約者が死んでる場合はどうすればいいですか?」

オペレーターは言葉に詰まって、「ああ、そういうご事情でしたか……」とまた申し訳なさそうにして、別の窓口を紹介してくれたのだが、たとえば母を死んだことにして手続きを進めるのは倫理的によくないな、と理性が判断し、「ああ、さいですか」と答えるにとどめた。

またもうひとつ「あなたは電話のところにいて、実際に呼吸をして、生きているんですよね?」と実存の問題が頭に浮かんだので問おうとしたが、やめた。これも倫理的によくないからだ。

 

予約番号を取れないと、どうしようもないらしい。

店員はここまで時間を使わせてしまったことに申し訳なさそうにしつつ、わけのわからない対応で1時間半も使いしかもなんの成果も得られなかったことに、若干うんざりしている様子だった。

私だってうんざりしていた。

映画の余韻が台無しだった。

 

だけど、iPhoneの充電だけはできたのでよかった。モバイルバッテリーも買わずに済んだ。

 

 

 

こうして書き出してみるとすべての問題点は、管理が杜撰だった私に非がある。

携帯のみならずさまざまな契約を放っているので、正体不明の金額が決まった日に月々口座から引かれていて、不気味に思っている。なんかそういう怪現象、みんなもあるのかなって見ないふりをしていたのだけど、たぶんこれは本当にちゃんとした方がいいやつだ。

そのうち整理しなくちゃいけない。

【ネタバレ無し】シン・エヴァンゲリオン劇場版を観てきた

日に休みを取り、シン・エヴァンゲリオン劇場版を観てきた。

普段会社に行くよりも早く起き、普段会社に行くよりも早く家を出て、8時半からの回に席を取った。

 

まさか上映中、あんなに泣いてしまうとは思っていなかったので、替えのマスクを持っていくんだった。

エンドロールの『One Last Kiss』聴いてるときはもうマスクびしょ濡れで呼吸がおかしくなっており(たぶん窒息しかけてた)、また周囲からすすり泣く声が聞こえなかったのでたいへん恥ずかしい思いをした。

ところでエンドロールの『Beautiful World』のダ・カーポバージョンめちゃくちゃ格好良かった。

 

まだ整理が追い付いていなくてひたすらな余韻に深く浸かっていて考察も何もないのだけど、もうこの作品については考察なんていらないんじゃないか、観たままのことが観たまま起こった、それを受け止めるだけ受け止めた、でいいんじゃないか。

DVD出たら買う(新劇場版は全部持ってる)。考察はそれからで遅くない。

 

 

エヴァに出会ったのは中学二年生のときで、私は13歳で、金曜ロードショーで『序』を観てからだった。

それからコミカライズ版で親しみ、新劇場版はもちろん追い、アニメ版と旧劇場版も全部観て、『シン』の公開をずっと待っていたような、待っていなかったような気がする。

旧劇を観たときはかなりびっくりして、ちょっとしばらく立てなくなった。孤独を選んだ結果の凄惨な結末がこれかと。なんかもう死のうかな、みたいな鬱鬱とした気分になってしまって。これがオタクの成れの果てかと。

アニメ第一話から全部観なおして、新劇場版に入ったときは、今度こそ、シンジが救われる世界になってくれと私も願っていた。

シンジは25年間ほとんど何も成長しなかったのだ。

『Q』で周りが歳を取る中シンジだけは精神的にも肉体的にも14歳のままで置いていかれて、ほかのエヴァパイロットは肉体が14歳のまま心だけ成熟し象徴的なネオテニー(幼態成熟)が印象的だった。

大人になれない大人たち。

置いていかれてる14歳のままの僕たち。

『Q』は旧劇場版並みに辛辣な揶揄だったと思う。シンプルにワケわからないところも多かったし。

シンジは、大人になった私たちのなかに置いていかれている、未解決の思春期なのだ。

 

────────

 

なんかここまで書いただけで『シン』のネタバレになっちゃう気がするし、なにも書けていないとも思う。

 

感想だけを簡潔に書こう。

 

私はエヴァンゲリオンを観てきてよかったと思った。

 

登場人物たちは、彼ら自身であり、私自身だったんだ。

 

寂しく、そして温かい気持ちになり、『One Last Kiss』を聴きながら、この曲が登場人物の誰に向けて書かれた曲なのか理解したとき、また泣いた。

なんて切ないのだろう。なんて愛しい感情だろう。

良い作品は、まるで自分自身の物語のように深く入り込んできて心を満たしてくれる。

この作品を作ったのが人間だと再認識して、人間を素晴らしい生き物だと思う。

そういう映画だった。

 

シンジや皆に感謝を伝えたくなった。

手を握り、ありがとう、と。

 

 

銃は発射されねばならない

頃夢に銃がよく出てくる。

二夜連続で銃が出てくることもある。

場面や状況はさまざまでよく覚えていないのだが、それは必ず拳銃で、黒くて、私ではなく他人が撃ち、私はただその発射を見ているだけでなにもせず(微笑みを浮かべるくらいはするかもしれない)、発射された弾丸はどこへ行くのか私は知らず、銃声はいつも小さい。

 

銃の夢は「不満」「攻撃性」を表しているらしい。

たしかに私は不満を抱えている。春ということもあり情緒が不安定で、朝なんか最近たぶん鬱病みたいになっていて、恋人のために食パンを焼いてあげるのがやっと、それから出社の時間までは食事も摂らずベッドの中でぎゅうと目を瞑っている。体が動かない。なにも喉を通らない。

攻撃性が高いので、唇の皮を剥いてしまう。同じようにしてささくれを千切ってしまう。鼻毛を抜くことだってある。

 

夢の中で銃声はいつも小さい。

毎回発射されるたびに「いや銃声小さいな。本当だったら奥歯が痺れるくらい煩いはずだ」と感想を述べている。

ぱしゅう、と老人の咳みたいな音。深いプールの底から聞こえてくるようなわずかな音。

だから撃たれてもきっとダメージはないはずだ。弾道はひょろひょろ弧を描いてキャッチャーミットに届く前に地面にめり込んでしまうだろう。

「攻撃性」はあるけれど、それを他人に委ねていて、しかも小さく発散される。その弱さが唇の皮を剥いてしまう弱さに繋がっている気もする。

 

ショボい銃声だけど、夢の中の銃は必ず発射される。

弾がどこへ行くのか、どうなってしまうのか、あるいは誰かを傷つけるのかは私にもわからない。

おそらく、「発射される」そのこと自体が、夢の中の私にとって重要なのだ。

だけどそれならもっと派手な音を鳴らしてまっすぐに飛んでいってほしいものだ。

春の朝は情緒不安定だから、夢の中の銃声がショボいことにもいちいち落ち込まなければならない。

僕の肝臓を食べたい

能か不可能かの話をしたい。

 

肝臓は代謝や分解を司る大事な臓器だから肝臓細胞が癌などにより損傷すると命にかかわる可能性は必然的に高くなる一方で、しかし肝臓は再生能力が高く、70%を切除してもおよそ半年ほどで元の大きさまで戻り、機能も回復すると聞く。

生命維持に直接的にかかわる臓器だからこそ、そのような高度な再生能力を持っているのだろう。専門家でもなんでもないので知らないが、たぶんそういうわけに違いない。あまり生命維持に関わりのない部分ほど再生能力は低くできているのだ。

 

私は思った。

これだけの再生能力があるなら、自分の肝臓を一部切除して取り出し、食べたとしても、あまり悪影響はないのではなかろうか。と。

自分の体の一部で食べるなら、肝臓が最も現実的な部位なのではないだろうか。と。

 

ちょっと切り取って、ソテーにして食べる。

半年もすれば再生する。

半年の代償で人肉を喰らうことができる。

 

可能か不可能かの話をしている。

 

 ────────────────

突然人肉食の話になってしまって申し訳ないし、なんかこういう「人肉食べたい……」ってちょっとイタイ中学生がニキビ面歪ませながら言ってそうなことなんだけど、そういうわけじゃなくて、私は単に、「可能か不可能か」の話をしたいだけなのです。

 ────────────────

 

腕や脚は切断したら二度と戻らない。

指や耳も戻らない。指は肉が硬そうだし、耳は一口で終わってしまうし、メジャーな部位じゃない。

尻は脂肪の塊だからあまり得意ではない。それに私の尻は冷たく硬いのでとても食べるに適さないだろう。

臓器の中では胃の切除もメジャーだ。

全摘出したらその胃を食べ収める胃袋が無いので一部摘出が選択されるだろうが、胃の一部と肝臓ならどちらが食肉部位としてメジャーかというと、もちろんレバーになるわけで。

それにレバーは栄養が豊富だから、摘出手術後に食べれば精がつくというものだ。

 

そのようにいろいろ検討した結果、食べるなら肝臓が最も現実的という結論に至った。

(皆さんはどう思いますか?)

 

 

私はカニバリストではないけれど、可能なら人肉を食べてみたいと思うものであり(誤解を生みそうなので弁解しておくと、人肉のみならずいろんな生物を食べてみたいと思っている)、しかし倫理的にそれは不可能で、それになんとなく他人の肉を食べるというのも気が引けるし不潔であると思うので、食べるなら自分の肉体にしようと強く心に決めている。

自分の肉ならワンチャン、と思っている。

死期を悟ったら、人生がどうでもよくなったら、なんとか頼み込んで(肝臓切除手術とその調理を)やってもらえはしないだろうか?

 

 

それにしても人肉を食べるというだけでもどういう心持になるのかわからないのに、さらに自分の肉を食べるのだから、情報量が多くて実際食べてみたらあまり味わえないかもしれない。