我々は福沢諭吉の不敵な表情を前に硬直していた。
恋人の会社の羽振りがよく、全社員に一万円が配られたのだ。
これをどうするか。恋人は二人のために使おう、と言った。
我々は議論を重ねた。
来る日も来る日も、雨の日も、風の日も、電車の中でも、散歩しながらも、ベッドの中でも、口角泡を飛ばして一万円の処遇について意見を戦わせた。
そうして、我々はこの一万円で、良い肉を食べることに決めた。
そんで、昨日食べた。
本来はちょっといい焼肉屋に行って死ぬまで喰らうはずだったのだが、本当に良い焼肉屋というものは予算一万円で収まるものではなかったし、すこしランク下の(それでも良いランクの)焼肉屋はどこも営業が20時までと限られているために時間の融通がきかなくて、予約が取れなかったので、家で焼き肉パーティを開いた。
でもお家焼肉も楽しかったし、自分たちのペースで食べられたし、余った肉は後日夕食に回せるので経済的にも良かった。
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我々は普段、牛肉を買えない。
節約しているからだ。
安売りの大量に入っている部位不問の豚肉や、鶏もも肉(もちろん消費期限がギリギリに迫る値引き品だ)を週替わりで買って、冷凍し、ちびちび使っている。牛肉は買えない。
たまにひき肉を買うけど、それも合いびき肉だ。
「牛肉って脂っこいんだよね。おれは豚肉の方が好き」
「私も。豚肉はさぁ、脂が甘くておいしいんだよね。鶏肉もさっぱりしてるし」
「牛肉はあえて選んでいないみたいなところある」
「牛肉が安くても豚肉を買う」
そのようなことをあえて牛肉売り場の前で声を大にしてのたまい、横目できつく牛肉たちを睨みつけ、「けっ」とか「偉そうに」と悪態ついてなんとか自尊心を保っている。
こんな生活でいいわけがない。
贅沢をするときは贅沢をするべきだ。
「良い焼肉屋へ行くのもいいけど、スーパーで一万円以内で牛肉買って、余ったのをその週の食事に回せればいちばん平和的なんじゃないか。経済なんじゃないか。みんながハッピーなんじゃないか」
とはいえ、節約が身に付いている我々は貧乏性な性質を拭えず、経済を優先して「節約しつつ贅沢をする」結論に至った。
普段横目で虐げている牛肉たちの正面に立つと、背中から変な汗が出た。恋人はすこし震えていた。
「なにを、どれくらい、買えばいいのだろう」彼女は指先で髪をいじる。緊張していると出る悪い癖だ。
「堂々としていればいいんだ」そう言ったものの、私もどれを買えばいいかわからない。
育ちとか教養はこういうところで出てしまうのだ。みっともない。
およそ10分は牛肉の前で思案しただろうか。ああでもない、こうでもない、週間の肉消費計画を立て、どの部位がどのような味がするのか調べ、議論は最後には「どういった心づもりで今回肉を食べたいのか」という哲学的な命題にまで発展した。(その答えは「感謝」と「褒美」だった)
結局焼き肉用の「お得パック」みたいなものと、赤身のお肉、それから切り落としを週間で使う食糧用に購入し、やれやれと汗を拭って家へ帰った。
早速今夜焼く用の肉とまだ焼かない肉を仕分け、焼かないものは冷凍庫へ入れ、今夜食べる用は冷蔵庫に入れた。
牛肉を使った料理をしてこなかったから、うまく今週を回せるのか不安だ。
その晩、焼肉をやったら部屋が焼肉のにおいになってしまって、もうずっとにおいが取れない。
美味しかったけど、我々は牛肉と心を通わし、幸せになれるのか、すこし自信がない。