蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

ユニクロのフリースだったなにか

お題「お気に入りの部屋着」

 

ニクロのフリースがないと冬を越えられない。

逆に、ユニクロのフリースさえあれば冬なんてどうにだってなる。

ユニクロのフリースにはそう言わしめる実力と貫禄がある。実力とは私が実際に着用して実感しているその温かさのことであり、貫禄とは私が酷使したためにいまや死んだ動物の毛皮、もしくはさざれ石にむした苔の如く老廃物的な趣を呈してしまったその見た目に因する。

使いすぎてボロボロなのだ。

「それを着ているあなたを見ると、寒々しくなって、惨めな気持ちになる」と彼女に言われる。

「僕はとても暖かいよ」

「暖かいのはあなただけ。できればわたしの前でそれを着ないでくれる?」

ユニクロのフリースは通常の衣服のモコモコさに対して150%の起毛を誇り、さすがに首都ホテルのスイートルームの絨毯の毛の長さには劣るものの(小市民の皆さんにはあまりピンとこない喩えで申し訳ない(陳謝))、陳列されている新品に手を重ねるとまるで優しい獣の腹を撫でたような感触で、起毛の王、と呼んで差し支えない部屋着である。

これを着れば良いことしかないだろうな、という予感めいたものを惹起させる。

「あたしを羽織れば良いことしかないの」という自信の声が起毛から聞こえる。

去年の秋に買って以来、たまに洗うのを除けば部屋着としてほとんど常に着用し、容赦のない真冬には着用したまま毛布にくるまって眠る夜も多く、その実力に全幅の信頼を寄せていた。

だが、酷使しすぎたのだろうか(酷使しすぎたのだろう)、かなりボロボロになってしまった。

起毛は──あの優しい獣の腹毛のようだった柔らかいモコモコは、いまや潰れて「起毛」というか「キモ」な見た目になり、とくによく寝ているからか背中側が酷い有様で、彼女に言わせれば「野良犬」または「ずっと洗われてない可哀相な犬」のようだという。どちらにせよ犬なのだ。

袖のあたりもやばくて、ここはもう生物的な面影はなく、単に雑巾、と化している。

小学校の教室の後ろにかかってた、牛乳を拭いて放置したままカピカピに乾いた雑巾。アレになっている。

 

私は着る側なのでその凄惨たる有様を見ることはあまりないのだが、彼女がたまに着ているのを見るとたしかに酷い。その色味(緑がかったブラウン)も相まって、公園で集めた落ち葉や苔を集めて固めたもののように見える。土くれ、である。彼女は身体が小さいので、男物のフリースを着てもそもそ動いていると土くれの質感相まって、なにかそういう、小さいゴーレムに見える。

洗濯するごとに生地は劣化し、摩耗し、威厳を損なっていく。

だが、こんな見た目になってしまっても暖かさにかけては劣ることないのだから驚きだ。

今年の冬も私を包み、春まで連れて行ってくれそうだ。と言ったら、

「まだ着るつもりなの?!新しいの買ってよ!」

とゴーレムに糾弾された。

 

ランチョンマットを買うべきだ

ーっと欲しかったランチョンマットをようやく買えた。

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ランチョンマットを敷くだけでマジで料理の味がワンランク上がる。

チヂミと すまし汁と米だけのシンプルな食卓でもこのとおり、賑やかになる。カフェエか?

料理が映えるとテンションも上がる。誰かに見せる、見せないにかかわらず。

このランチョンマットの色合いはダイニングの椅子とも合わせている。彼女が暖色、私が寒色で部屋の雰囲気もいい感じに調和が取れ、全体的に温度感というのかな、温かみが増したように思う。

そこを狙ってもいたので、なかなか望んでいたランチョンマットに出会えなかったのだった。こういう買い物は「出会い」なのですぐに手に入ることは期待していなかったけど、それにしても出会えなかったので、いよいよ、もうテキトーな、なんかギラギラした不釣り合いな、食欲を減退させる効果のありそうなものでも買おうかとヤケになってきてもいたのだけど、諦めないでよかった。納得できるものを買えた。

 

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ついでにお皿も買った。

雑貨屋とか食器屋は、どれも可愛くて全部欲しくなるので、眺めているうちにムカついてきてレジに行く頃には半ギレになっている。

この皿も半ギレで買った。

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アボカドをマヨネーズ、醤油、コショウ、オリーブオイルで和えて、フランスパン(半額50円)にチーズと乗せて粉チーズをかけて焼いたもの。日曜の朝はこうでなくちゃ。って毎週とか毎日やってるみたいな当然の顔でSNSに投稿するけど、私は料理が上手くいったときしか載せないことにしている。

そうすることで、見ている人たちから「この人はいつも丁寧で豊かな生活をしているんだな。料理が上手なんだな」と思ってもらえるからだ。

これは、ズルですね。

(アボカドペーストは美味しくできた)

 

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彼女が会社でレトルトカレーを貰ってきたので、消費期限が3日過ぎた卵を ゆで卵にし、萎れたほうれん草を茹で、冷凍庫の底で化石のように丸まっていた鶏むね肉をこんがり焼いてトッピングにした。

このようにテキトーなものであっても、ランチョンマットの上になればご覧、お洒落なカフェランチ。

ランチョンマットすごすぎる。料理のお洋服だ。ランチョンマットという装いで料理が映えて、雰囲気が良くなり、味も変わってくる。料理の上達は「皿を揃える」と「ランチョンマットを買う」が近道かもしれない。

ところでスプーンに自分の姿が映るので、木の匙を買おうと思った。

 

まだまだお皿は欲しい。引っ越したときにテキトーに勢いで買った百均の皿とかそういうのばっかりだから。箸や茶碗も、もっと可愛くて美味しそうなものにしたい。

いずれはテーブルクロスとかコースターとかも欲しい。

罪深い食事ができるうちに

しぶりに、大好きな家系ラーメンを食べに行った。

かなり大雑把な説明だが、家系ラーメンというのはこってりした濃いめのラーメンである。

それを久しぶりに食べたら「あれ?」と思った。

なんだか、キツいのだ。

美味しい。美味しいのだけど、なんか段々キツくなってくる。お腹が苦しいんじゃなくて、なんだか喉を通って行かないというか、脳が「もういいです」と訴えてくる感じ。

卓上のショウガをスープに溶かし、酢を混ぜてやると味があっさりして食べやすくなったが、私の中ではある危惧が喉に引っかかり続けて、楽しみだったラーメンは後半、ほとんど事務的な消化作業と相なって啜っても引っかかるようで、はっきり言ってあまり美味しさも感じなくなった。

「年を取った」

といってもまだ26歳なのだけど、年々、こういった濃いめ油多めの食べ物キツくなってきている。

その事実から目を背けていたけど、久しぶりの家系ラーメンを前にはっきりと現実を目の前にした。

「年を取った」

ラーメンは大好きだけど昔から食後に「二度と食べるか」と後悔するたちで、あまり得意ではなくこれは私の内臓が弱いせいなのだったが、食べてる途中で「やばい」と冷や汗を流したのはこれが初めてのことだった。

そういえば最近、甘いものがめっきり駄目になってしまって、パンケーキも半分を過ぎたあたりからは「お残しは許さない」責任感から強迫的にフォークで口に運ぶだけの作業と化している。

とんかつもロースかつは結構きつくて、近頃は「塩」でいくようになった。

恋人もパフェを食べてると胸焼けがしてくるらしくて、彼女は甘党ゆえにその事実はかなり堪えたようであった。

 

こういう食べ物がキツくなるのって、もっと先のことだと思っていた。

38歳以降、いや、若くても30歳までは平気の平左とばかり思っていたのだが、それは本当に最終的な足切りの年齢で、選別自体は25、6歳から始まっているのだ。

 

だからこそ、と私は思う。

だからこそ今のうちに、今しか食べられないものを食べよう、と思う。

どうせ老いれば粥しか食えなくなり、死ねば煙か土か食い物になるのが生物の定め。ならば今のうちに──まだ多少の余裕のある今のうちに──生クリームを頬張ったり、濃いラーメンをアブラ多めでいったり、真夜中にピザを食べるべきなのだ。

そう、後悔はしたくない。

ほとんど湯みたいな粥しか啜れない老人になったときに「真夜中にたらふくピザ食べておけばよかったな」とホスピスで思いたくない。死ぬ直前に「アブラ多め、麺かため、味濃いめ……」などと のたまいたくない。

 

イムリミットは迫っている。カウントダウンは始まっている。

罪深い食事ができるうちに罪を重ねておかねば。

デス・デザインの時代

近、大学時代の友人らに会う機会があって、久しぶりに恋人や会社の人以外と喋ったのが新鮮だったし、それぞれの近況や変化を聞けて楽しかった。あと、他人の仕事の話は妙に面白かった。きっと聞く分には責任が無いからだろう。

激痩せした人こそいなかったけど、目に見えて肥えた人はいて、私レベルの肥満嘆きなんぞまだまだ可愛いレベルだと安心した。

私に関しては「前髪がやや後退している」と指摘された。冗談じゃない。

 

それにしても最近の私はどんどん太っている。栄養という栄養を砂漠の草木のように貪欲に吸収しているし、その栄養を使わず無為に蓄える姿は日本の借金メーターを彷彿とさせて観察していると不安になる。

いずれ将来、取り返しのつかないことになる。

「私レベルなんて可愛いもんだ」と先ほど書いたけど、それは「現状まだ可愛い段階」というだけで、ここからなにか手を打たないといずれは醜く汚く、環境破壊の権化みたいな憎悪の姿になることは間違いない。

「相変わらず細い」と言われたり「ぜんぜん太ってないじゃん」と友人たちには笑われたけど、内心、細めの冷や汗を垂らしていた。

私は着痩せするのだ。

私らしい太り方だと思う。外面ばかり取り繕って、内面では取り返しのつかない事態が進行し、いずれ外面にまで及んで体面を失う。小さなほころびが拡大していき人生に障害をきたす、そんな私らしい太り方だ。

 

また体力の衰えが著しく、生きててこんなに体力が落ちたのはかつてないほどで、正味、三十代になる頃にはなんらかの介護を必要とするのではないかと危惧している。

一時期ニンテンドーSwitchのゲーム「Fit Boxing」をやって体力増強を図っていたが、続かずに辞めてしまって、それ以降坂道を転げ落ちるように体力が減った。

一度つけた体力が減る速度は計り知れない。

また、ここ二週間くらい毎日頭痛があるのも様子がおかしく尋常ならざる雰囲気である。この頭痛はおそらく首と肩・背中のひどい凝りからきていて、神経と血管が圧迫されて脳神経に支障をきたしているのだ。

私の背面はいまや亀の甲羅のようにかたくなっている。

このまま亀になるのだろうか。それはそれでいいような気もしてくるが、万年も生きるのは勘弁願いたい。

 

肥満・体力の低下・体の不調

これらをどうにかするために、一昨日から再び「Fit Boxing」をはじめた。じつに4ヵ月ぶりのログインであった。

体力がなくなっているので「軽め」のコースでも休み休みやらないと完走できず、ときどき喉奥からせり上がってもくるものがあるのでそのたびにゲームを一時止めて呼吸を整え、ちかちかする視界が急激に暗くなったり明るくなるのを「あはは」と笑いながら虚空を見つめて安定するまで床に座り込み、あるいは横臥してビクッと体を震わせている。

惨め。あまりにも。

二十代後半ってこんなに「くる」ものなのか?

 

私の人生の目標は健康的に、そしてドラマティックに死ぬことだ。

そのためにはこんなところでへばってる場合じゃない。

ライフ・デザイン、キャリア・デザインなんて古いよ。

これからの時代はデス・デザインだ。

矛盾しているようだけど、健康的に、明るく、ドラマティックに死ぬためには、充実した人生を送る必要があるのだ。

充実とは人によって定義が異なるけど、そこに健康が関わるのは間違いない。

できれば安らかに死にたいのは誰しも同じ。最悪に苦しんで死ぬなんて嫌だ。その要因の一つである「病」を忌避すべく健康を維持したい。

 

いつか死ぬときのために、今からでも遅くない、私はヘロヘロでもゲーム画面に向かってパンチを繰り出すのだ。死にそうになりながら。

最近無かった「ちょっといいこと」/ポイントカード・ラビリンス/最近あった「ちょっといいこと」

今週のお題「最近あったちょっといいこと」

 

ぶんあった。最近あったちょっといいこと。

たぶん、ちょっといいことあったはず、なのだけどうまく思い出せないのは、26年も生きていれば「はは、得したわ」程度の幸せなんて記憶容量にとどめておけるほど感動をもたらさず、その幸せから別の物事へ視線が移ったらすぐにも忘れられてしまうからだ。

寒いね。なんて寒くて寂しい人生だろう。

こういうときは『人間失格』とか『苦役列車』を読んで元気を貰うのに限る。陰惨で最悪で関わり合いたくないような人生に触れると逆説的にパワーがみなぎってくるんだ。自分とは関係のない人生を追体験できるのが小説の良いところだよ。

本は良い。個人的で、時間の流れを楽しめて、文字を追う快楽が伴う。

「ちょっといいこと」が全然思い出せないので、このテーマはなかったことにして次の段落から別の話します。

 

☆☆☆

 

本屋のポイントカードを毎回作ろうとして失敗している。hontoカードというマルゼンとかで使えるやつだ。

レジで「ポイントカードはありますか?」と訊ねられるたびに「ああ、今回もおれはカードを登録し忘れた」と額に手を当てて首を振り、「申し訳ありませんが、新しいカードを貰えますでしょうか?」と店員に伝える屈辱よ。

このカードは会員登録が必要で、カード受け取り後にサイトで会員登録を済ませてカードと紐づけなければ使えない。

私はカード受け取り後、帰宅してからカードを貰ったことを毎回のように失念して紛失、または「めんどくせぇな~~~」とイライラしてこれを窓外に放擲するなどしてやはり手放してしまうので、ずっとずっとポイントカードを登録できないでいたし、レジで差し出すこともかなわなかったのである。

これまで無駄にしてきたポイントがあれば辞書の一房くらい買えたはずである。その辞書を使って私は言葉を自在に操り、おもしろいブログをしたためられたはずだったのだ。これは私の損でもあり、読者の皆さんの損でもある。それを思うと奥歯に血が滲むようだ。

 

今回こそは、と新しいカードを受け取って、帰宅即、会員登録をすすめた。

しかし、なぜかうまくいかなくて、システムによって弾かれる。

メールアドレスを入れると「すでに登録済みです」みたいなメッセージが出てくるのだ。そんなわけないではないか。

どこのシステム会社が運営しているんだ、このグズノロサーバーめ、誰かおれのメアドを不正利用してやがるのかこの野郎、と怒ってカードを窓外に放擲する前に、メールボックスでhontoからのメールを確認してみる。往々にして私の落ち度であるパターンが26年の経験上多いと知っている。

するとたしかにhontoからメールが来ているではないか(26年の経験が物を言った)。

会員メールはすべて「迷惑メールボックス」に入ってるところから顧みるに、私は昔に会員登録をして、即、煩わしくて迷惑メールに登録したのだろう。

それで思い出したが、私はカードではなくhontoアプリをインストールしていた。

iPhoneのホーム画面を遡っていくと「使わない」とひとまとめにされたアプリたちの中に、hontoアプリがいた。

 

私は自分でも忘れたうちに、会員登録を済ませていたのである。

システムは正しかった。

 

なんだ、それじゃあこれからはカードを使わなくてもアプリを提示すればポイントが貯まるじゃないか、と一安心。過去の私、やるじゃんか♪ と良い気になったのも束の間、今度はアプリにログインができない。

正味、ここからが大変だった。

私はこういったポイントアプリ系の会員情報を登録して13秒後に忘れてしまうので、一度登録したが最後、二度とログインができない宿命なのだ。フザケてぜんぜん知らん人の名前や経歴で登録しているものもあるのでたまに知らない名義でお得情報がメールで来たりする。

自分でもなにかの病気、あるいはグレーゾーンなのではないかと疑ってる。

思い当たるパスコードを入れるがどれもだめだった。むだにセキュリティ意識が高い。自分でも思いつけないパスワードを設定するな。

数回の失敗でアカウントが「ロック」されたらしく、なにを打ち込んでも管理画面は梨のつぶてになってしまった。

「パスワードを忘れた場合」から再送メールを送ってもらおうとしたが、これもシステムエラーなのか、いっこうにメールが届かず(もちろん迷惑メールボックスにも来ない)いよいよダメそうだった。

私は永遠にhontoカードを使えないのだ。

カルマ。これは前世からの業(カルマ)なのだきっと。

ははは。ポイントがなんだ。くだらない。そんなものに固執する人間は貧しいに違いない。そうに違いない。

半ばやけくそになって、滲んだ目で最後の頼みとアプリのメモ帳を遡った。

会員登録時、機嫌が良ければIDとPWをメモしている可能性がある。

はたして、それは、あった。

 

考古学的な発掘により「発見」されたIDとPWを打ち込むとそれまでかたく閉ざされていたログイン画面が観音開きで私を迎え入れ、苦戦3時間、ようやくホーム画面までたどり着くことができた。

バーコードが煌々と表示される。レジでこれを見せればポイントカードと同じ扱いになる。累積ポイントを見てみると当然「0pt」。

でもいい。これから私はここに貯まっていくポイントと共に生きていけるのだから。人生はまだ始まったばかりなのだから。

 

これが最近あった「ちょっといいこと」かな。

「ナナへの気持ち」への気持ち

スピッツの好きな曲はいくらでもあるのだけど、なかでもやっぱり好きなのは「ナナへの気持ち」(アルバム『インディゴ地平線(1996)』収録)だ。

マイナーな曲だしそこまで人気曲でもないけれど、大好きなので語らせてください。

 

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「笑いすぎ?ふふふ……」という女の子のセリフで始まるこの曲は、曲調も、セリフで始まるところも、スピッツにしてはストレートな歌詞も、他の楽曲とは一味違っている。

わりに単調なメロディラインでサビ以外は淡々としている。ギターもベースもドラムスも8分音符を並べラップのトラックのような正確なリズムを刻み、ハモリが入る以外にはサビまで変化を見せずに進行する。

歌も淡々としていてあまり抑揚のない変化に乏しいメロディで、打ち明け話をちょっとずつ聴いているような印象を抱く。

内容はナナという女の子への気持ちをつづった歌詞。

気持ちをつづった、というよりか、ナナがどんな女の子であるか特徴を並べていく歌詞で、ほとんどがナナの描写に費やされる。

たとえばこんなふうに。

 

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ナナはちょっとアホな子なのかもしれない。

ここだけ読むと主人公はナナに対してちょっと冷たいというか、離れたところから見ている視点を持っている気がして、自分には持っていないものを持っている人に対する憧れと好意とわずかな嫉妬のようなものを読み取れる。

ナナのこと、気になってんだよな。きっと。

ところで「ヘンなとこでもらい泣き」とか「元気ないときゃ」って言葉の選択がスバラシくて、「変なところで」って漢字にしたり「元気ないときは」と砕かずに書いても意味は通じるのだけど、ここで言葉を崩すから子犬を観察するような単なるナナの描写にとどまらずに主人公がナナのことを想って(あるいはよく見て)語る実感が伴っているわけで、その感情の立体化にこの言葉の一端で成功しているわけです。

やや冷たく見えるような描写にとどまらず「アイツおばかなんだけどさ、でもね……」と感情が入っているわけです。

 

この曲は「ナナ」を好きな「おれ」の話を聞いている私たちの歌、なのだ。

 

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次も描写が続く。

ガラス玉のピアスとか日にやけた腕とか根元だけ黒い髪とか、なんかちょっとギャルっぽい感じで、困った女の子で。

だがここまで「ナナ」のことばっかで「おれ」の気持ちがよくわからないのだけど、次の一行ではっきりする。

「幸せの形を変えた」

この一行だけで、主人公がナナにどういう気持ちを抱いてるのかわかる。

「おれ」のタイプの女の子ってきっとナナみたいな子じゃなかったのだろう。アホっぽくて周りを困らせる、コギャルではなかったのだろう。

彼が思い描く幸せってもっと平凡で、ナナに巻き込まれていく不思議な世界のものではなくて堅実なものだったのだろう。

ナナという存在はその固定観念をぶっ壊して「おれ」を外に連れ出すようなパワーがあって、「おれ」を変えていく、幸せを変えていくのだ。

これって恋だ、とここではっきりわかる。「好きだ」って言葉じゃないところが素敵。

「幸せの形を変えた」という言い換えはこの曲のキラーフレーズだろう。

 

好きになっちゃったものは説明のしようがなくて、どこが好きかと訊かれると説明するのは難しく、外見の特徴とか笑い方?とか?言葉にしてみてもなんだか違うような、ぜんぜん言い表せなくてもどかしくなる。

「ナナのどんなところが好きなの?」と訊かれて答えたのはこれまでの歌詞にあることで、ナナってあんな感じだしおれも最初に会ったときはみんなと同じように誤解してた部分もあったんだけど、、、と言葉を重ねているつもりだけどちょっと冷たい描写にもなってしまいかねなかったのは、言葉が脆くて全然ナナのことわかってないみたいな上滑りの部分しか言えてないと気付いたからで、それが悔しいし結局どうして好きになったのか言葉にできない。ただ彼は気持ちを素直に言葉にできる。

「幸せの形を変えた」

 

そしてサビではこれまでの描写の饒舌が嘘みたいに「ナナ」と叫び、ハーモニーを重ねる。

「君だけが」「ナナ」「ここにいる」「ナナ」

名前を歌うことでしか表現ができない感情。

自分にとって特別な名前って魔法の言葉みたいなもので、呼びかけるだけで、書いてみるだけで、なにか力を与えてくれたりするものなんだ。

ナナにむかって走り出したくなるような、すでに走り出しているような、衝動的で溢れていて止まらない気持ち。

 

この曲はサビのあとに間奏を挟まずにAメロの展開に戻る。そこで曲が一区切りするので、次の歌詞でひとつシメになる。

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ここの歌詞が狂おしく好き。

「街道沿いのロイホ」って時代を感じる。ロイヤルホストってファミレスだけど今はそんなに見ない。(ひっそりと落ち着いたファミレスでここのパンケーキは美味しい。)

「夜明けまで話し込み」がこそばゆいね。夜明けまで一緒にいるってことは、彼はきっとナナとその先の関係に行きたかったのだろうな。もしかしたらまだ手も繋げていないくらいだったのかもしれない。

だから次の「なにも出来ずホームで」に繋がってきて、どうしてナナの笑顔が「憎たらしい」のか見えてくる。

ナナってたぶんなんにもわかってない。こっちの気持ちも、男がどういう生き物なのかも。

無垢で、ガラス玉みたいにキラキラしていて、日にやけた腕にはまだ少女のあどけなさが残っていて、ビタミンみたいなパワーが溢れててたくましい。

「よくわからぬ手ぶり」がそんなナナの無邪気さを表してて、直前の「憎たらしい笑顔」が本当に憎たらしいわけではなくて愛情を持った可愛さを言う「憎たらしい」なのだと気付く。

彼はナナとずっとお喋りをしただけのプラトニックな関係に見えるし、そしてなにも言い出せなかった情けない男のようにも見える。「おれ」はその先を望んでいただけに、この日はちょっと肩を落として帰るかもしれない。もちろんお喋りも楽しいのだけど……。だからナナの笑顔はちょっと憎たらしい。おれはナナに翻弄されている。

今までナナのことは外見の特徴とかあくまで上辺の描写にあてられていたのだが、ここで初めて「おれ」自身に向けられたナナが登場する。一晩話し込んで明けた朝の、反対側のホームに佇む「おれ」にナナがなにもわかってない憎たらしい笑顔をほころばせ、肩を落とすおれによくわからぬ手ぶりで笑わせようとしてくる、ナナ。

どうしておれがナナを好きなのかわかる。

ナナは、ナナだからだよ。

だから歌の最後にこう言えるのだ。

「君と生きて行くことを決めた」

このしめくくりが、情けないような主人公の男らしさをびしっとキメていて萌える。

 

この曲、最高なんです。めっちゃ書いてきたからわかると思うけど、イチバン好き。

女の子讃歌であり、恋愛讃歌。ちょっと覗かせる男らしさ。

ナナはどこにでもいるようなギャルっぽい普通の女の子で、この恋も普遍的なもどかしいものなのに、ナナへの気持ちだけは特別で。

単純な描写の重ね合わせに見えるけど、言葉の使い方とかたった一行の短い言葉の持つ情報量の多さで、ナナと彼の風景が見えてくる。

そして最後は恋じゃなくてこれは愛なのだと彼も、聴いている私たちも気付かされる。

それでも君が好きなんだよ、ナナがナナだからだよ、という尊い気持ち。

自分自身も抱いたことのある気持ち、自分だけのナナへの気持ちを思い出して温かくなって、ちょっぴり甘酸っぱくなる。

たまらない曲だ。

 

スピッツファンの「ナナ」さんがいたら本当に羨ましい。

 

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食器棚を買う人

日ついに食器棚を買った。
食器棚を買ったことで、食器を買うことができるようになった。同棲をはじめてから1年4ヵ月が過ぎようとしていた。

これまでよく使う皿類はシンクの上に設置された網棚に置き、あまり使わないものはキッチン台の空いてるスペースや棚の隙間などに入れていたのだが、食器棚を買ったこれからはしかるべき場所にちゃんと入れることができる。

我が家にはずっと食器棚が無かった。それは惨めな生活だった。

 

友だちの家に行ったときに食器棚があって、え、やっぱりあるんだな、と驚いた記憶は新しい。

「リサイクルショップで安かったんだけどね」と友人は言った。

高さがあって、扉がついていて、食器を入れることに自分の存在を見出している立派な食器棚だった。食器棚があるというだけで「豊かさ」のようなものを演出できていたのである。

正直言って、ナメていた。

二人暮らしにもかかわらず我が家には無かった。

そのことが少しずつ負い目になってきたのか、置き場所もなく放置されている皿を見るにつけて、情けない人生だと思うようになった。おれは食器をしかるべき場所にしかるべきかたちで収納することもできない人生なのか。

それに加えて、私たちは皿が好きで出先でよく雑貨屋などを見て回るのだけど、その際にも結局「収納スペースがない」という理由で買うのを諦めていたのである。

たったそれだけの、しかしどうしようもない理由で。

なにがいい人生だ。好きな皿を買えないでなにが豊かな人生だ。

惨めで悔しかった。食器棚の必要性は危急であった。

 

じゃあ食器棚を買えばいいではないか、と思われるだろう。

だが、我が家にはあいにくそのスペースもなかったのである。

 

彼女とさまざまな議論を交わした。

とき口論は激しくなり、ため息交じりに「食器棚は諦めよう」「もうこの部屋を引っ越すしかない」「死ぬしかない」みたいな結論に達してうちひしがれ、放置された皿たちを睨みつけることもあった。

食器棚を設置するにはダイニングの家具をどれか移動しなければならないのだ。

本棚を移動する場合はリビングに移動することになるが、そうだとするとリビングの私のベッドは彼女の部屋に運び込まねばならない。ぎりぎり入らないこともないが、彼女の部屋の安いドレッサーは破棄せねばならない。それに彼女の部屋がなくなる(私の部屋はもともと無い)。

あるいは200冊あまりを収納している本棚を捨て、本も捨て、食器棚を設置するか。ギターなんかも置くところが無いので手放すか。冷蔵庫を捨てるか。キッチン台を捨てるか。

こんなことでは喧嘩になってもしょうがないというものだ。

 

結局いろいろあったものの、家具の角度やラックの変更やスペースの微調整により、小さめの食器棚ならなんとか入ることがわかった。

試行錯誤の末、繰り返したシミュレーションと計測の末、度重なる口論の果て、であった。

入ると言ってもかなり微妙なところで、たとえるなら電車の席のわずかに空いたスペースにオバハンが巨尻を押し込んで無理矢理座ろうとしているようなものだ。

「理論上は食器棚を設置できる」

だがその理論があれば良いわけで、早速小さめの食器棚を取り寄せた。何度も言うが食器棚の有無は危急存亡の秋であった。

注文から二週間後、それは休日の午前中にやって来た。

組み立ては簡単で、引っ越しの際にいくつも組み立てか経験から言うと楽勝、ビートルズの『リボルバー』を聴いているうちに終えられた。

 

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リボルバー』(1966)

 

理論上可能とされたスペースにもぴったし入り、二次的な効果としてダイニングの空間も広めに拡張されて、すべてがうまくいった。

放置されていた皿やカップやグラスがしかるべき部場所に吸い込まれるように収納され、全体的にすっきりした。随意に収納できる。皿を入れながら笑ってしまった。

こうあるべきなのだ。こうあるべきだったのだ。

 

まだまだ入れられるので、こんどの休みにでも気に入った食器を買いに行こうと思っている。食器の充実は食卓の充実に直結する。

すべては豊かな人生のために。