蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

村上春樹を読みすぎた者の末路

 一月某日に卒業論文を提出した。2万4000字ほどの論文になった。
 卒論の準備を始めたのは提出の一年前から。私は村上春樹の作品をテーマに書くと決めたので、その日から村上作品を片端から読み進めた。
 村上春樹は好きだし、尊敬する作家であるが、一年間、読書の八割を村上春樹にあてると、はっきり言って、うんざりしてくる。やれやれ。じゃないよまったく。射精ばっかしやがって。
 一番困ったのは、自分の文体が村上春樹チックになったことだ。都会的で軽妙、そして斜に構えたあの文体だ。見る人が見れば、ああこいつ村上春樹ファンなんだと、すぐバレて恥ずかしい文体になってしまった。恥の多い人生だよ、やれやれ。
 
 論文を書いたのはこれが初めてだった。五千字程度の小論文は書いたことがあったし、小説なら十三万字書いたことがあるけど、ちゃんとした論文を二万字も書くのとはわけがちがう。
 論文には論文の文体があり、呼吸がある。その呼吸法を掴むのに時間がかかって、初日は百字程度、二日目は三百字程度、といった具合に初めのうちはキーボードを叩く指が痺れて仕方なかった。しかし、毎日やるというのは大事なことで、次第に文筆に長く潜ることができるようになってきて、最終的には一日五千字書けるようになった。まじです。
 文章にはジャンルと長さによって、水泳のように呼吸法とリズムがある。クロールにはクロールの呼吸法があり、遠泳には遠泳のリズムがあるように。こうやってお気楽に書いている文章は、短い背泳ぎだ。
 けれど、どの文章も、次第に長く息を止められるようになってきて、最終的には珊瑚の裏側に、海底の砂に触れられるほど深く潜れるようになってくる。そうなってからが面白い。そこには見たことのない自分の世界が広がっているのだ。
 文章の呼吸についてはいずれまた機会を改めて書きたいと思う。

 論文を提出する前は、自分の論こそが最も正しく、論に抜かりはなく、サイコーでパーフェクトでビューティフルでコングラチュレーションでハッピーハッピーハッピーなもんだと思い込み堅固な自信を持っていたが、提出した後になって(提出直後と言ってもいい)、これまでが嘘だったかのように自信を喪失し、自分の論は誤りで、抜かりばかりで、最低で不完全で汚辱で喪中で不幸不幸不幸だと思うようになり、下痢が止まらず、酒が止まらず、血尿が溢れ、枕を塩で白くし、歯が抜け、髪は真っ白になってしまった。やれやれ。じゃないよまったく。
 後日、論文に関して教授と面接がある。そのことを考えると今夜も酒が止まらない。面接を待たず廃人になりそうだ。
 ちゃんと論文書いてえらい!と思い続けることで精神分裂を律している毎日。寒さはこれからも増す。やれやれ。じゃないよまったく。