蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

英語ができないけど日本語もできない

 本の教育を受けてきた私だから言えることだが、この国の言語教育は腐ってる。その証拠として、私は中高6年間と大学で2年英語を勉強してきたにも関わらず、英語がまったく話せないのだ。
 簡単なセンテンスを読むくらいならできるが、書けと言われたらそうとう時間がかかるし、リスニングもできない、話せない、
 いったいお前は8年間何をやってきたんだと怒りたくなる。


 文系のくせに英語がめちゃくちゃ苦手で、というのもなんか勉強する気になれなかったのは、大人たちがまったく英語を喋れないし、でも喋れなくても全然生きていけてるし、「これからは世界と付き合っていくためには英語が必須となります」と言われても世界と付き合おうだなんてこれっぽっちも思わなかったどころか、私は高校時代彼女の「か」の字もなく世界と付き合う前に女と付き合うことすらままならなかったので、大人たちの言う「英語を勉強しなさい」という言葉はまったく響いてこなかったし、先生が「英語を勉強しろ」と言うのは私が将来世界と深く交流することを望んでいたからではなく、少しでもいい大学に入ってほしかったから、要するに英語の偏差値を上げろということだったのだ。勉強するわけないだろ。こんなので。
 私が英語を勉強したいと言った覚えは一度もないのに周りは勉強しろと言う。頼んでない。
 世界史の勉強をすればするほど英国のクソッタレさに胸焼けがしてきて、アメリカの身勝手さに吐き気を覚え、やつらは悪魔の民族だ、戦勝国なだけだ、だから英語は穢れた言語だ、劣等言語だ、と強く思うようになった。劣等言語で簡単だから世界中で喋られているのだ。その点日本語は何と美しいことか。日本語話者としての優越感。このように英語を勉強しないことを正当化した。
 そして論破された。
 気付いたのだ、そのクソの劣等言語の誰でも喋れる誰でもできる英語を、できない私、の存在に、この矛盾に。なによりも劣等な「私」。古典もできないし。
 なにもかもクソッタレと言うに申し分なくて、現実的に英語ができなければ大学には行けそうもなかったし、私は嫌々英語を勉強することにした。
 私は自分で自分に論破されたのだ。
 

 

 高校の英語の先生が極めて厳しくて、怖くて、生徒は授業前に震えていた。授業開始10分前、いや、その先生の授業がある日は朝から教室が暗くて、みんな青ざめていて、試験でもないのに教科書を読みこみ、和訳に躍起になり、中には胃痛で腹を抑えている者もいた。大げさではない。私はありのままに描写している。
 先生が教室に入ってくると空気が「ぴし」と張り詰めて、緊張感が静寂にしみわたる。女王の教室、はじまる。
 今思い出して書いていてもなんだか胃が痛い。よほど怖かったのだろう。
 先生は挨拶もそこそこに「教科書○○ペェジ」とだけ言ってテキトーな通路に立ち、右手に持った教科書の英文を読む。その時すでに、先生のそばの生徒が左手で指名されている。これはどういうことかと言うと「この英文を即刻正確に和訳せよ」という意味である。
 最初に先生の授業を受けたとき何の説明もなくこのような指導がはじまり、もちろん誰も予習なんてしていないので答えるどころではなく、先生を激昂させた。状況の把握ができず、わけのわからないスタンド攻撃を受けたときのように脳内パニックに陥り、そこからはデスゲーム死亡遊戯)、平穏で退屈な日常に突如始まった生き残りをかけた死のゲームでしかなかった。
 いかに怒られずに授業をやり過ごせるかが最重要課題だった。そのためには勉強するか休むかしかなかった。先生は風がそよいだだけでも怒り狂って村を潰す発情期の象のように、ちょっとしたミスでしょっちゅう怒っていた。
 それで、命を懸けて予習したにもかかわらずわからなかった場合、もしくは予習しなかったためにわからなかった場合、先生はため息をつき、その後ろの者をさらに指名する。このため息が恐ろしい。「呆れ」と「失望」を孕んだため息なのだ。言葉より多くを語るそれこそが私たちを失意の底に沈め、心に深い傷を負わせる。あまりにも「わからない」状況が続くと、そのうち当てられもしなくなる。そうなったら終わりだ。

 この授業、パワハラだったのでは?と思うかもしれないが、パワハラではなく授業だった。この厳しい環境に誰一人音を上げなかったのはなぜなら、先生が生徒を想っていたからである。
 先生は生徒を想って厳しく指導していた。甘くなかった。でも、質問をしたら快く答えてくれたし、テストで良い点を取ったら「がんばってますね」などと褒めてくれたし、授業で生徒を指名するにしてもその人に合った問題を選んでいたのだ。誰よりも生徒を見ていた。熱意があって、愛情があった。
 その先生のおかげで、高校2年間でそれなりに英語ができるようになった。どんな長文が出ても慌てなくなった(その先生より恐ろしい長文が出題されることはないので)。


 それでも私が浪人してしまったのは、国語の古典が壊滅的だったことと、リスニングと英文法がおざなりだったからだ。長文は読めるのに文法がままならなかったのだ。現代文だって得意科目にするほど得意ではなかった。私は受験のための勉強をすべてにおいて欠いていたのだ。


 その後、浪人時代を通して英語を伸ばし古典も現代文も得意になりなんとか大学に入れたのだが、大学の英語の授業はすさまじく退屈で、先生がぼそぼそ喋っているだけだし、試験も隣の人に採点してもらう方式だったので、もとから口裏を合わせておけば単位の心配はなく、授業中にずっと関係のない文庫本を読んでいたら、大学四年生になった今、英語がまったくできなくなってしまった次第にて候。
 英語ができないのは教育のせいが半分、自分のせいが半分だ。


 でも、それとは関係なく、日本の英語教育で英語話者レベルになることはあり得ないと思うんだよね。大人たちはそのレベルを望んでいるにもかかわらず。
 だからといって国語を減らしたら日本語の思考力が落ちるし。このままでは日本は滅ぶのではないか?
 滅べ。

 

 

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