蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

【ネタバレ有り】夏目漱石『こころ』は高校の国語で読むべきだろうか?

  折に触れて、と言うけど、その「折り」ってなんだろう。寿司折りだろうか。

 寿司折りだろうが菓子折りだろうがなんだっていいけど、ともかく私は折に触れて漱石『こころ』を読むことにしている。

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 最初に読んだのは中学のときで、この頃は頭がよくなかったので「言葉難し~」くらいにしか思ってなかった。

 次に読んだのは高校の国語の授業で、第三部「先生と遺書」の一部を読み、あらためて個人的に最初から通読したのだった。

 大学生のときにも読んだが、社会人になった今年、また改めて読んでみた。

 おおよそ3~4年に一度、「読もうかな」と思って読むことにしている。

 

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 社会人になった現在『こころ』を読んで、ああ今まで私は本当の意味でこの作品を読めていなかったんだな、と思った。

 って偉そうに鼻にかけて書いたけど、実は読み返すたびに「ああ今まで私は本当の意味でこの作品を読めていなかったんだな」と思うので、この想いの意味する客観的な信憑性は皆無と言っていいだろう。格好つけたかっただけである。

 でも、読むたびにそう思わせるというのがさすがは名作で、何度読んでも初めて読んだように新鮮な感動と驚きと悲しみがある。

 

 今回読んでみて思ったのが、これはもしかして推理小説なんじゃないか、ということだ。

 高校の国語の授業のせいで私たちはなんだかこの作品を、人間の愚かしさや不確かさを、誰もが経験し得る恋愛の成功と挫折を通じて描き出した作品だと思いがちだけど、漱石自身、はたしてそういうつもりで書いたのだろうか疑問だ。

 というのも、『こころ』は終始一貫してひとつの「謎」を抱えているからである。

 

 その「謎」とは、「先生の過去」である。

 

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 主人公「私」は鎌倉の海で先生と出会う。

 「先生」と親交を持つにしたがって、「先生」の思想に触れた「私」は、「先生」がどのようにして現在のような人間になったのか知りたくなる。

 「私」は終わりゆく大学生活のうちに、「先生」に探りを入れていくようにその過去を知りたいと思うのだが、「先生」は口が堅く、また人間そのものを一切信用していないので、「私」はなかなか「先生」そのものを知ることができない。

 一歩「先生」の懐に入り込めたと思ったら「先生」は意味深な言葉で「私」から距離を置き、「先生の過去」という謎は第一部と第二部を使ってますます深められていく。

 「先生」の妻との関係、「私」の田舎の死にかけの父、そして明治天皇崩御。……

 時代と「謎」を軸に物語は読者を翻弄する。

 こうした物語の進み方は、どこかすこし探偵小説らしさがあるのではないか。そう思った。

 

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 夏目漱石をそんなに読んでいるわけではないのでわからないし、そもそも『こころ』じたい深く読んでいるわけでもないので、ここで語る一切はいち読者の妄想に過ぎないということを記憶して下さい。

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 漱石彼岸過迄は明らかに都市生活と探偵小説に影響を受けていて、主人公がなんかおじさん(名前も境遇も忘れた)を尾行する話だったと思う。ここに関して、漱石の時代は探偵小説が興隆を極めていた、ということを言いたい。

 都市生活における見知らぬ他者との袖が触れ合うだけの薄い関りが、人間そのものへの興味と謎を人々に持たせ、ミステリー小説は生まれた。

 こうした時代背景の中で書かれたのがシャーロック・ホームズをはじめとした探偵小説で、それに影響を受けたのが江戸川乱歩『秘密』を書いた谷崎漱石なのだ。

 特に漱石は英国留学していたこともあり、英文学には人よりも鋭敏であったはずである。ちゃんと知りたい人はちゃんと調べてください。私の妄想であることを記憶して下さい。

 

 そうした背景を考えると、『こころ』もひとつの探偵小説、推理小説として読めるのではないだろうか?

 第三部「先生と遺書」によって一切の謎は明かされる。すなわち、「先生」は過去を語る。

 第三部は小説全体の約半分を占めるほど長く細かく「先生」の心理が論理的に語られるにもかかわらず、最後の最後まで「どうして先生は今の先生になってしまったのか」は明かされない。

 友人の「K」が自害する。「先生」はそれによってなにもかも内面を変えてしまう。

 だがそこにいたるまでに、あらゆるミスディレクションがあるように私には読めた。

 「K」の真意の読み取れない言動や行動、「奥さん」とのちに「先生」の妻となる「静」のすり合わせたように人を翻弄する行動、などである。そうしたミスディレクションのパーツは読む人に「Kはどうして死ぬことになるのだろう。もしかしてこの時のこの行動のせいなのかな」と意味深に思わせる。

 

 「K」が死ぬことは前から分かっている。

 「先生」が雑司ヶ谷の友人の墓に毎月参りに行くことは第一部から書かれているからだ。「先生と遺書」に登場する「先生」の友人は「K」だけなので、なんとなく読んでいて「Kは死ぬのだろうな」と勘づける。

 読者にある「謎」は「誰が死ぬか」ではなく「どうして死ぬか」なのだ。その真相に至るまでにあらゆるミスディレクションがある。

 

 だけど酷いことに、最後まで読み終えて私が思うのは、「どうしてKは死ななければならなかったのかわからない」ということだ。

 説明しようと思えば説明できるけど、いまいち煮え切らない思いが残る。

 ことの真相は読者ひとりひとりが思い浮かべたものであり、答えは無いように思われる。『こころ』はまさに私たちの心のように掴みどころがない。

 だからこそ、この小説は読む人全員の「自分の物語」になるのだろう。だからこそ読む時期によって感想が変り、いつまでも読み継がれるのだろう。

 

 それにしても、ことの真相をはっきりとは示さない点において、ミステリーとしては凡作だ。ただ、しかしながらその点において、『こころ』は探偵ミステリー小説を超えている。

 

 ついでながらに書いておくと「K」という暗号じみた名称もミステリー小説らしさがある。

 

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 このように、『こころ』を探偵ミステリーとして読むと、また違った読み方ができるため面白いが、ここで私は漱石に対して同情の念を覚えてしまった。

 というのも、高校の国語の授業で『こころ』を読んだ人は多いだろうが、なんと、ミステリー小説の読み方にあるまじく、授業では「K」が死ぬところを中心に据えて読むのだ。

 物語の核。すべての謎を語る最大の謎「Kの自害」を読んでしまうのだ。

 『こころ』をミステリーと捉えればこれがどれだけの暴挙かわかるだろう。これには漱石も鬼籍で涙目だ。

 教科書で『こころ』初見だったひとは、もう二度とこの作品を純粋なミステリー小説として読むことができなくなる。

 「先生」がクヨクヨしているのを読んで「そうそう、Kが死んだんだよね」なんて思って読むことになる。こんな悲しいことあるだろうか。あるな。

 そういう悲しみの意もあってブログタイトルに【ネタバレ有り】と書いた。高校教育の悲劇の二の舞を演じてはならない。

 

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 ではどうして教育委員会ミステリー殺しをしてまで『こころ』を高校生に読ませたかったのかと言えば、この作品はミステリー以上に、人間の掴みどころのないそのものを描き出した文学だからである。

 高校の多感な十代、恋もするし喧嘩もするだろう。

 これから社会へ巣立っていくというとき必要なのは、他者への怯えと独りよがりな内面を捨てて、人生に立ち向かっていく勇気と、弱さに赦しを持てる強さである。

 『こころ』にはそれができなかった登場人物が二人いて、二人とも死んでしまう。

 二人の死は、時代の思想の特別なものだったのだろうか?

 ちがう。

 誰もが青年期に抱える葛藤と醜さに立ち向かえなかったからこそ、死んだのだ。

 

 はたして日本人はその恥すらも忘れているのではないだろうか。