蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

セロリを丸かじりして違う世界が見えた

 海林さだお氏のエッセイが私は好きで、文章スタイルに多分の影響を受けている。
 ところで、いつかの本で東海林氏がセロリを株からバキっとちぎり、なにも付けずにそのままむしゃむしゃ食べるというエッセイを書いていたが、私はそれを実践したことがある。

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 実践といっても、セロリを株ごと買うわけにはいかないのでスーパーで一本だけ買い、水洗いして、段ボールのテーブルでお椀に入れ、正座して、静寂が満ちた無音の狂気の中、独りでむしゃむしゃ!とやったのだ。
 どうしてそんなことになったのか?


 当時、私は杉並区の築40年を超えたおんぼろアパートに引っ越したばかりだった。今、レオパレスの違法建築が話題だが、それに負けず劣らずのボロボロ具合であった。隣の部屋からいびきが聞こえたし、私はテレビを持っていなかったので壁に耳をくっつけ、毎週「なんでも鑑定団」を聴いていた。鑑定品の詳細な金額はわからないけど、桁ぐらいはわかった。
 6畳一間のその部屋は、引っ越したばかりの私を、見たことのない深海の貝みたいな照明器具で静かに、こぼれるように照らしてくれた。
 さて、引っ越したその日、私は夕飯に困った。
 新品の小さな冷蔵庫には、マヨネーズしかなかったのだ。どうしてマヨネーズだけがあったのか、その理由はいくら考えても思い出せない。もしかしたら冷蔵庫の付録だったのかもしれない。
 家族から離れて、自分一人だからこそできる夕飯を食べたい。
 そう思った私に閃いたのは、東海林さだお氏のセロリのエッセイだった。そうだ。今が時だ。私はスーパーへ走った。


 スーパーでセロリ1本とお椀と発泡酒を購入し、アパートへ戻った。まだ荷ほどきも終わっていない雑然とした部屋は、他人の住まいのようなにおいがして、安住の地とは言い難い沈黙で満ちていた。セロリがかさりと音を立てた。
 浄水器も付けていない水道水でセロリを大雑把に洗い、買ってきたお椀に入れた。倒れた。お椀の大きさに対してセロリが大きすぎるのだ。30センチ以上はあった。どうして皿を買わなかったのかも今となってはわからないが、ともかくその時はお椀が欲しくて、これさえあれば私の王国は築けると思っていたのだ。私は革命家なのだ。
 セロリをお椀に橋渡しにして、発泡酒を開けた。金麦。檀れいが夏の夕暮れを背景に微笑む。独り暮らし最初の、記念すべき晩餐だ。

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 段ボールのテーブルはところどころ凹んでいて、おまけに段ボールとガムテープのにおい(私は「文化祭のにおい」と呼んでいる)がするし、セロリは橋渡しだし、食欲増進の観点から見れば最悪の盛り付けであった。さながらディストピアだった。
 光度の低い電気にぼんやりとした影を落としたセロリはしかし、それだけで威圧感を放ち、鮮やかなグリーンも眩しく、私を睨みつける。まな板の上の鯉、もといお椀の上のセロリも睨むことくらいはできるということか。すると、セロリは言った。
「おれを食うのか」
 低く鋭い、確信を持った声だった。
「食うさ」
 答えて、私は発泡酒を飲んだ。そうしないとまともにはなれそうもなかった。
「食われるなよ」
 セロリはニヒルにそう言うと、永久に沈黙した。
 どういうことだ?
 私は意を決してセロリを鷲掴みにし、葉の方から、ぐわし、と頬張った。
 

 森。


 口いっぱいの、森。
 森の香りが鼻を突き抜け、目からこぼれ、耳から囀(さえず)り、手を震わせた。森。
 私が掴み、そして咀嚼しているものの正体は野菜ではない、森だ、森の権化だったのだ。
「食われるなよ」
 セロリさんが忠告した言葉の意味がわかった。私は圧倒的森感に呑まれようとしていたのだ。
 すでに全身の60%は森に呑まれつつある……!このままではやがて、私も森になって、この冷たい杉並区の一角に鎮守の森を作り生やすことになってしまう……!
 私は森を無理矢理胃に押し込め、金麦を啜った。檀れいが森の陽だまりの集まる小屋の前で微笑んでいた。いけない。戻れなくなる。
 まだセロリは葉の部分を半分以上残し、首都高速道路みたいに太く頑強な茎をまるまる残していた。このまま食べ続ければここは鎮守の森。私はトトロになってしまう。月夜の晩にオカリナでも吹こうかな。
 私は味方の存在を思い出した。
 マヨネーズ。
 顔色の悪い冷蔵庫を開け、薄黄色の半固形を赤い蓋からお椀に絞り出した。頼むぞ。私は葉をマヨネーズにつけ、マヨにすがる思いで口にした。
 森。
 まだまだ森。
 しかし……。
 都会のビルの上にある、屋上緑化で人工的に作られた森だった。森というより、ビオトープだった。


 勝った。


 私は森を手中に収めることに成功した。完全に支配した。私は都会のアパートの一部屋で、6畳一間の薄暗いこの部屋で、都会に潜むことを覚えた。


 茎は噛むと大げさな音を立てた。ヴァシィッ!と、プロ・テニスプレイヤーがスマッシュを打つときのような音だ。そして、噛み切れない。これまた大げさなほど太い筋が噛み切れず、ぐいと引っ張ると、たらりと筋だけ垂れさがってる有様だ。強靭な維管束がまだ脈打つような錯覚を覚える。なんだこの茎は?グロテスクな森の精霊、たとえばマンドレイクみたいなやつの、腕か?そう思ってしまうほど、茎はそれだけでひとつの威圧感を私に与えた。
 ヴァシィッ!ヴァシィッ!たらり。ヴァシィッ!ヴァシィッ!たらり。ヴァシィッ!ヴァシィッ!たらり。ヴァシィッ!ヴァシィッ!たらり。
 ウィンブルドンもびっくりのラリーを続け、しかし私はセロリに勝利を収めた。


 思いの外満腹になった。部屋にいても仕方がないので、外へ出て散策することにした。
 知らない街のにおい。
 街は私を受け入れてくれるだろうか?私はこの街の人間になれるだろうか?
 閑静な住宅街に、どこかの家からお風呂のにおいがした。子どもとお父さんの声がした。それだけは地元と変わらないのに、遠くからかすかに聞こえる首都高速道路を走るトラックの音が私を知らない街へ引き戻す。口からセロリのにおいがした。金麦のにおいがした。それが私を知らない街へ引き戻した。

 私は知らない街で独り暮らしを始めたことを思い知った。そこは私の知らない世界だった。

 

 

 

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