私の好物のひとつに「きびなごのから揚げ」がある。
小魚のから揚げ。ついつい箸が止まらなくなり、そのうち手で掴んで食べ、最終的には零距離食い(ぜろきょりぐい)をする有様。
というのは冗談にしても、喋りながらついつい食べてしまうので、ある時には同行人が一匹しか食べていない、という事態に陥るほどであった。パンケーキほどではないにしても、私はきびなごを瞬速で食らう。食らうというか、飲む。
同じように「しらす」も好きで、特に生しらすが好きで、あるとばくばく食べてしまう。
きびなご、しらす、小エビ、しじみ等々、小さな生き物を食べるとき、私は「野生」を思い出す。もちろん調理されているのだけど、頭から丸ごと食べるというのは尋常であれば野生動物がすることであって、文化圏に暮らす我々人間は「たい焼き」で妥協しているのが常である。
食う。
命を、食う。
食らってる。
体の一部に取り込んでいる。。。
生きる。。。
そう思いながら食べているので、同行人にはいつも引かれる。
ただ、きびなごはそうではないけれど、小エビやしらすやしじみはひとつひとつが小さいため、一匹ずつというのはどうも食べにくい。
特に、しじみの味噌汁はよくない。美味しいのに殻から身を外して食べるのが面倒だ。
でも、残せない。
なぜなら、小さな生き物は、命を丸ごと皿の上に、あるいはお椀の中に投げうっているのだから。
(そもそも食材のすべては命を投げうっているのだけど、感覚的な話として)
(写真はフォロワーさんに提供していただきました)
残すとその命を冒涜している気がしてくる。たとえばこの小エビは海で楽しく暮らしていたのに、不意に捕らえられて、気が付いたら私の食卓に上っている。残さず食べて小エビの命を私の生きる活力に変換できたなら、小エビの供養にもなるだろう。だけど、残されてしまったらどうだ?この小エビはなんのために死んだんだ?いたずらに死んだだけか?
強迫観念が私を苦しめる。
もう食べたくない、罪を背負ってまで。でも食べる。美味しいから。残したくない。残さない。
小エビを使った料理は、だから残さないようにしている。しらすも。面倒でも箸でつまんで、尾の先まで残さない。残すと呪われるかもしれない。
でも、やっぱりしじみの味噌汁は面倒くさい。
殻から外していると箸が止まり、リズムが狂う。汁を飲んだ後にまとめて食べればいいのだけど、満腹でそこまでの気力がもたない。せっかく出汁がおいしいのに、しじみエキスが最高なのに、殻があるおかげで興醒めだ。だけども強迫観念があるので残せない。
私はしじみの味噌汁が出るたびに、ノイローゼのようになって殻から外して食べていた。「昔までは」。
今ではそんなことしない。
堂々と身を残す。
もちろん、食べるのだけど、どうしても食べきれない場合は残すことにしている。なぜなら。
なぜならだね、しじみの生命はエキスになって汁に溶け込んでいる説を支持しているからだ。
しじみの栄養分はしじみエキスにこそある。味噌汁にエキスが溶け込んでいるため、身はもはやおまけの状態に成り果てているのだ。せいぜい僅かなたんぱく質くらいか。つまり、味噌汁のしじみの身は、もはや殻と同じ、おまけなのだ。無意味なのだ。
この説を思いついてから、私はしじみの味噌汁ノイローゼにならなくなった。
私は残したとしても、しじみの命を尊重できているのだ。
堂々と「ごちそうさま」を言える。
なんでも考え方次第。どうだろう。エゴか。
エゴですか?人間は勝手ですか?
はい。