蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

テキトーに文章を書くには

 どうしても文章を書かなくてはならないときがある。

 しかも2000字以上の、どうしたって埋められない文字数を埋めなければならないときがある。

 書きたくなくても、書けなくても、書かなければならないときはあるものだ。

 それは多くの場合「レポート課題」と呼ばれている。

 

 大学生は今の時期、レポート提出を求められるだろう。

 もう7月末だから、すでに大戦(試験)を終えて「試験お疲れ様会」と称して安い焼酎で割った酎ハイを穴という穴から呑み、穴という穴から吐き出して、救急車で運ばれたりJRの連結部分で盛大にぶちかましたり、気付いたら山奥のうらぶれた駅のベンチで夜を明かしている頃かもしれない。こういったことは大学生のうちに経験しておいた方が社会人になってから恥をかかなくて済むから、率先して痴態を晒すべきだ。私には関わりないので。

 なんて話はまたいずれの機会に改めるとして、試験期間中にいくつかのレポートを書いたはずだ。

 私も学生時代、数々のレポートを編み出して恥ずかしげもなく提出したものだ。

 真面目に受講していた授業はそれなりに文献を漁り調べて自分なりの論を立てて文字数におさまりきらないほど書いたものだけど、ほとんどのレポートはテキトーにすませるなどしていた。酒を飲みながら書いたレポートもある。時には酒の力を借りて完成することもあったし、完成しないこともあった。多くの場合、完成しない。

 

 

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 大学一年生の英語の授業でレポート提出を求められた。

 日本語訳された指定の英文学作品を読み、その感想を2000字で、日本語で書くという、英語の要素がほとんどないレポートであった。

 通年で何回か提出を求められた。

 カフカの『変身』、ジェイムスの『ねじの回転』、オーウェルの『1984年』、シェイクスピアの『オセロ』と『ハムレット』、フォースター『インドへの道』のレポートをそれぞれ書いた。

 『インドへの道』という作品のレポートを書くにあたって、読む時間がなかった私は映画を見てその感想をあたかも読んだかのように書いた。

 そもそもこの作品、古すぎて古本ですらぜんっぜん売っていないのだ。

 提出2日前に、さて、そろそろ読むか、と思って本を探したけどどこにも売っておらず、インターネッツで調べたところ小説を原作とした古い映画があることがわかった。奇跡的にTSUTAYAにも置いてあり、それを見て、「この作品は退屈なほど長くて読みにくいことこのうえなかった」といったことを2000字かけてねちねち書いた。読んでないのに。

 『インドへの道』はまだ映画を見ていたからいいものの、『オセロ』に関しては映画すら見ていない。

 Amazonのレビューを読んで書いた。

 不特定の人々の独自の解釈や勝手な感想をもとに感想のイメージをかため、Wikipediaでストーリーをおおまかに把握して2000字書いた。よく書けたものだと思うし、よく単位が来たと思う。あんな空虚な文字の羅列で。

 こういったレポートは「読んだ」という確たる事実に基づいていないので、ほとんど創作である。なのだ。

 嘘を2000字かけて、いかに本当っぽく論理立てて説明するかが味噌だ。

 これは想像力があればどうとでもなることで、感想文ならまだ楽な方である。想像を書けばいい。直球に感想を述べるのではなく、遠回しに、比喩や劇中のセリフを引用して、最後にどう感想を抱いたのか書けばいい。

 つまらなかった、と書くだけではシンプルすぎるので、

つまらなかった→なぜつまらなかったか→面白い部分もたしかにあった→たとえばこのセリフ→ほかにはこの部分→でもつまらなかった→なぜつまらなかったか(もう一度同じことを言葉を変えて書く)

といった具合にやっていると2000字なんてあっという間である。

 

 

 一番最低だったレポートは、朝鮮半島と日本の仏教についての授業で出されたレポートだった。

 まったく興味のない授業だったし、現に生徒も5人しかいなくて、最終的には私ともう一人だけになってしまった人気の授業だった。

 私は小教室の中央に鎮座し、レポート用紙にひたすら般若心経を写経したり小説を書いたりして十数回の100分授業をやりすごした。

 そのため、ぜんぜん授業を聞いていなかった。

 だから、レポート提出を求められたとき困った。

 テーマは鎌倉時代の僧侶明恵について、であった。

 誰だよ。

 明恵に関することならなんでもいいという。独自の解釈を交えて文字数は原稿用紙13枚以上。つまり5200字以上である。なぜその枚数なのかいまだに謎なのだが、とにかく多かった。よくわからない鎌倉時代の僧侶について5000字以上書けるわけがない。

 いくつか文献を読んで調べはしたけど、よくわからなかった。

 仏教関連の書籍は古くて難しいものが多く、ひどいものだと漢文で書かれていて「読むな」と言われてるみたいなものだった。

 それでも書いた。

 よくわからないなりにわかったことがいくつかあって、それらを書き終えたとき、文字数は4000字ちかく残っていて、泣きたくなった。

 埋めなければならない空白はあまりにも多かった。

 よくわからないなりに読んだ漢文の文献をできるだけ長く引用し、同じことを言葉を変えて、視点を変えて四回書いた。

 

 結果、私はレポートを提出して、S(最優秀)の成績を得た。

 

 多角的な視点()が評価されたのかもしれない。

 あるいは漢文の白文を頑張って読んだのが評価されたのかもしれない。

 とにかく不本意にもSを獲ることができたし、試験もなかったので、終わってみれば清々しい爽やかな気分である。こういう日に飲む酒はすこぶる甘い。

 

 もしかしたら先生は韓国人だったので、私の怪文がよく読めずにとにかく文量だけは立派だったからテキトーにSを付けたのかもしれない。

 もしかしたら最後まで授業に出ていた数少ない人間だったから感謝のSだったのかもしれない。

 

 

 テキトーでも文章を書いて提出するコツは、苦しみながらも「書く」というただそれだけのことに尽きる。書かなければ書けないし終わらない。

 そして、先生が読まないでテキトーに評価してくれることを祈ろう。