私は本を読む。
たいていの本は最後まで読むのだけど、中には最後まで読めない本もある。
その理由は、私には難しかったり、文章が気に入らなかったり、読むのに苦痛を感じる、などなど多岐にわたる。
その一方で最後まで読める本というのは、理由はシンプルなもので「私にとっておもしろいから」最後まで読めるのだ。
下の記事は「最後まで読めなかった本」の紹介だ。参考にしてほしい(読んでほしい。10回くらい読んでほしい)。
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ところで、「最後まで読めたけど結局なんだったのかよくわからない本」が多少なりとも存在する。
今日はその紹介をしようと思う。
「最後まで読めたけど結局なんだったのかよくわからない本」とはどういうことか。
小説というのは、物語を読むものだ。はじまりがあって、終わりがある。主人公が動いていて、誰かと恋をしたり、優勝したり、死んだりする。だから小説を読む私は物語り=内容 を追っているのであり、内容理解(最低限ストーリーを把握する)できないと、「物語」を読んだことにはならない。
複雑な物語ほど理解しにくいし、難解な文章であるほどよくわからなくなってくる。
最後まで読めなかった小説のうちのほとんどは、そういった要因によって読書のエンドマークまでたどりつけないのだ。
しかしながら、内容をぜんぜん理解できていないにもかかわらず、最後まで読めてしまった小説が存在する。
なぜなのか、理由ははっきりしている。
「読ませる文章」なのだ。
描写が美しかったり、文章の流れが美麗だったり、文章そのものがおもしろかったり、そういった「文章の魅力」または「文体の魅力」が、その小説を、内容理解せずとも最後まで読ませてしまう。
その物語の内容要約をすると、100字で収まってしまうような、しごくつまらないものもある。
それでも「読ませる」のは「文章(文体)の魅力」があるからなのだ。
これから紹介していくけど、人によっては「えこんなのも理解できなかったの?」って思う人もいるだろう。私は、けっこう頭が悪いので、あまり理解力がないのだ。そのことを小さい脳味噌の片隅に入れておいてほしい。
1.『下谷万年町物語』
最近読んだ中では断トツで意味不明だった。
意味不明にさせるその原因は、文章の意味不明さにあるだろう。描写やセリフが詩や舞台のようで、言葉の選択は関連性に富んでおり、いったい何のことを言っているのかよくわからなくなってくる。
唐十郎は演劇の人なので、内容も演劇についてなのだが、登場人物が途中から作中に存在する他の登場人物の役を演じるようになり、しかもそのパートが長いために、なんなのかわからなくなってくる。
また登場人物の多さに辟易する。しかも突然出てきたり、作中の舞台で彼らは入れ替わるのだ。
え、これは誰?なんの話をしてるの?死んだの?
登場人物たちが「ヒロポン」(麻薬)を多用するため、文章の意味不明さと、ストーリー進行の突拍子もなさと相まって、読んでいてだんだんヒロポンを打たれたような幻惑的なかんじになってくる。
それでも最後まで読めたのは、その意味不明な格好良い文章によるのだ。
詩や舞台のセリフのような描写や言葉回しは一種快楽で、癖になってくるのだ。声に出して読むと、よけいにおもしろい。
ちなみに、表紙のギター弾きみたいなのは出てこない。
2.『雪国』
これ、ぜんぜんわかんなかったなぁ~。
なんか、前半と後半で話の展開がちがうというか、辻褄の合っていない部分が多数あるのだ。
あれ?これどうなったんだっけ?って箇所が所々にある。
え?こんな展開だったっけ?ってなって、よくわからないまま終わる。
そうなってしまった理由は、川端本人も物語をよくわかっていなかったためである。前半と後半で期間をあけて書かれており、筆者も展開を忘れてしまっているのだ。いや、読みなおせよ。
だけど、私がこれを最後まで読めたのは、その文章の美しさのためだ。
洗練されていて、一切の無駄がない。言葉が少ないのに、頭の中にはっきりと情景が浮かんでくる。
あの有名な冒頭からしてそうだ。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」
この短い一行が、それだけで多くの背景を生んでいる。
文章の要諦は簡潔さにこそある。
こういった文章がひたすら続くので、頭の中で情景は広がり続け、においや音や熱までも心の内からしみだしてくるように、情景を思い描くことができる。
ノーベル文学賞を獲っただけのことはあるなぁ。
3.『彼岸過迄』
これはつまらなかった。つまらなかったけど、食い入るように最後まで読んだ。
前半は探偵もの(またはストーキングもの)で、後半は恋沙汰。
漱石の小説はだいたいそうだけど、つまらない。はてしもなく退屈だ。劇的なストーリー展開でもないし、文章はひじょうに抑制されていて、目を見張るような美麗な描写も底まで多くない。
『三四郎』なんて読み終わるまで何回眠ったことだろうか。
『彼岸過迄』のタイトルは格好良いだけで、内容とは一切かかわりがない。漱石がこれを新聞連載していたころ、内容も特に決まっていないけど彼岸過ぎまでには書ききりたいなぁ、と思って付けたのだそうだ。テキトーすぎる。
かなりつまらないのだけど、読ませる。
文章に重力があって、重かったりあるいは空も飛べそうだったり、だけれどもしつこくなくて、和食のようにあっさりとしていて、満腹感がある。
文章はきわめて抑制されている。
川端と同じく簡潔で、ただし伝えたい以上のことを言葉が伝えている。
そしてリズムがいい。小難しい言葉を使うのに、すらりすらりと、しかしながらしっかりと噛みしめるように文章が体の中に入ってくるようだ。食べ物みたいだ。
一度漱石の文体の楽しみ方を覚えると、現代作家の文章では物足らなくなってくるほど。
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さて、他にもたくさん紹介したい本があるのだけど、内容はほとんど同じようになってしまうからタイトルだけ紹介しよう。
・『ホサナ』『告白』 町田康
・『伯爵夫人』蓮實重彦
・『禅と日本文化』鈴木大拙(これは新書だ)
・村上春樹の長編全般(ほんとうに理解しようとしても理解できないが、少なくとも理解できた気持にはなれる。中編も短編だってよくわからないものが多い。寓意のメタファーに満ちているかもしれないし、読んだままの物語なのかもしれない、好むと好まざるとにかかわらず。好きなように読むといい。読まないという選択肢もあるいは賢明な判断かもしれない。彼の作品を理解しようとすることは、ジャズを理解しようとするようなものなのだ)
読ませる文章、というのは書こうと思っても書けるものではない。
意味不明だけどなんか読んじゃうんだよなぁ~って文章は、内容をよりどころとしていないで、純粋な言葉の力だけで、感動を与えてくれる。
文豪と呼ばれる先人の文章は、そういったものが非常に多い。
対して現代の作家で、そういった文章を書ける人間ははたして少ないように思われる。この時代において文豪はもう誕生しえないのかもしれない。
私がそこまで熱心な読書家ではないから知らないだけかもしれないけど。
おすすめあったら教えてください。