昔は感動して泣くことなんてなかったのだが、最近は感動的なCMやスポーツ観戦ですぐに涙するようになってしまった。
ホルモンバランスの乱れのせいだろうか?妊娠するとホルモンが乱れると言うし、そうかもしれない。妊娠してないけど。
昔はそういう感動ものに対して斜に構えてたので、まったく泣けなかった。
どうせ泣かせようとしてるんでしょって魂胆が見え見えじゃないのさ。あたしゃ泣かないからね。ふん。つまらん。くだらん。あけ好かん。
といった具合に、もはや拒否反応すら示していて、泣かせようとしているものを目にすると全身が痒くなる思いだった。
だが、それも今となって思えば、生来の涙脆さを隠すための反抗期の精神的対抗だったのかもしれない。
涙脆くなったのは、大学に入ってからだ。
反抗期も終わりを迎えつつ、大学生になった私は音楽サークルに入り、その演奏会で号泣することになる。
オーケストラ的なものをやっていた。年に一回しかない定期演奏会のために、浴びるように酒を飲みつつも真面目に練習し、浴びるように酒を飲み、また浴びるように酒を飲んだ末に演奏会を迎えるのだ。
練習はべつに辛いものではないし、飲み会の方が臓器的な辛さはあったのだけど、それでもなんか演奏会は泣けた。
卒業していく先輩との最後の演奏、一年間の集大成……演奏会マジックがあって、もうこのサークル嫌だとトイレで飲んだ酒を戻しつつ泣いていても、演奏会さえ迎えればすべてのことがどうでもよく、素晴らしい思い出になる。
大学でサークルに入ったおかげで私は忌憚なくどこでも泣ける涙男になり、ついでにどこでも吐ける男になってしまった。
そして社会人になった今、ますます涙脆くなり、怒られたり悔しいことがあって泣くことは無いけれど、反抗期に抑えていた涙を解放したかのように感動ものでざあざあ泣くようになってしまった。
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最近読んだ本では『アルジャーノンに花束を』で泣いたし、角田光代さんの『八日目の蝉』で泣いた。『八日目の蝉』は映画でも号泣した。
泣ける小説を探している自分がいる。いちばん泣いたのは吉本ばななさんの短編小説集『キッチン』に収録されている「ムーンライト・シャドウ」だ。私にも大切な恋人がいて、小説の主人公と自分を重ね合わせて、泣いてしまった。
最近はラグビーとバレーボールやってますね。泣ける。
スタジアムに立つ選手たちは日本中から選ばれた、よりすぐりの選手で、「才能」をあざ笑うかのような苦闘と敗北と努力を重ねてきて、運を味方につけた人々だ。
その背景を想うと涙せずにはいられない。
あの人たちの底には、この舞台に立てなかったライバルや仲間がいる。自分をそこに立たせている努力がある。
努力は美しい。結果がどうあれ、それだけで泣ける。勝敗なんてどうだっていいのだ。でも、勝つとかなり泣けるから勝ってほしい。
ラグビーの試合の途中に挟まれるkubotaのCMがとても泣ける。
毎回泣く。自分でも馬鹿だと思う。
なにも毎回泣かなくったっていいじゃないか。
だけど、今あらためて見たとき、涙ぐんでしまった。
それから、最近では日本生命のCMがアカン。
食事中に流れて、わけわからんくらい泣いてしまい、味噌汁がしょっぱくなった。
今あらためて見て、またずぶ濡れになってしまった。
やれやれ。
泣いてしまった後で、そうやって冷笑する反抗期を終えたもう一人の私がいる。
彼の目は腫れぼったくて、冷笑はあたたかい。