蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

痒みのにおい

 員電車はこの世に存在する乗り物の中で最も醜悪な乗り物のひとつだが、とくに寒くなってからの満員電車は最悪中の最悪である。

 駅で待つ間に冷えた体は楽園的温もりを求めて満員電車へ入るが、そこにあるのは人間しかいないとは思えぬ動物的なニオイと こもる熱気、それに付随した湿度である。そこにエデンは無い。ヘル(地獄)だ。

 

 今日も今日とて満員の電車に乗り込むと、今日のニオイは酷かった、鳥小屋のニオイがした。

 なぜ鳥小屋のニオイがしなければならないのだろう?穀物の殻の香ばしいニオイと喉に絡みつくようなちぎれた羽のニオイが交じり合ったようなニオイが、人間しかいない満員電車に立ち込めていた。

 しかしまぁ、文句を言っても仕方がないので(人は諦めを知ることで大人になる)、遅刻するわけにもいかないし、吊り革に掴まって大人しく職場まで更迭(こうてつ)されるしかなかった。こういう時こそ本を読むに限る。

 

 隣に立っていた男がふらふらしていて、私の肩にぶつかり、背後の女性にもたれかかり、目下(もっか)の座席に座るサラリーマンの膝に触れ、サラリーマンが膝を動かすと男は、ああ、とでも言いたげにしゃかりき佇むのだが、またすぐにふらふらしてしまう。

 こういう人、たまにいる。

 たぶん、多動症の類なんだろうな。多動症には満員電車はさぞ苦痛だろう。そう憐れに思って本を読んでいたのだが、あまりにもふらふらするので気になってしまい文章が目を滑った。つい、ページの隙間から男を覗き見た。

 

 多動症じゃない。

 

 その男は、立ちながらにして眠っていたのだ。

 

 立ち寝する人は珍しくもないのだが、ここまで下手な立ち寝は珍しかった。この男の場合「寝たくないのにまぶたが落ちてきてしまう」といった眠りかたであった。

 その証拠に、彼は頭を掻いたり、腕を掻いたり、肩を掻いたり(とにかくよく掻き毟る男だった)、腕を伸ばして吊り革をぶら下げる金属棒にぶら下がるようにし、その悪辣な睡魔を祓おうとしていたのだが、効果は芳しくなかった。またすぐにふらふらして、目下のサラリーマンを苛立たせるのだ。

 サラリーマンは明らかに苛立っていた。

 そりゃそうだろう。目の前に立つ男が今にも覆い被さりそうにふらふらしてサラリーマンの膝をじわじわ攻撃するのだ。苛立たないわけがない。

 でもそれだったら、この哀れな男にその席を譲ってやってもいいんじゃないか。そう思ったけど、私だったら絶対に譲らないなと思った(人は見ず知らずの人への親切心を失うことで大人になろうとする)。

 

 男はおよそ網棚に載せるには不釣り合いなほど大きいボストンバッグからミネラルウォーターを出し、一息に半分ほど飲んだ。満員で揺れる車内で。

 サラリーマンには同情の念を禁じ得ない。常にローキックされ、頭上には過重量なボストンバッグが載せられて今にも崩れ落ちてきそうで、目の前には満員電車で水をがぶ飲みする男がいる。サラリーマン、前世の行いが悪かったのだろう。

 それにしてもいい飲みっぷりだった。横目で見るぶんには爽快感すらあった。

 喉を下る水流のかたい音が聞こえ、ペットボトルの中でごぼごぼと泡立つ水の激しさが飢えた男の渇きを思わせた。

 

 しかし、それでも彼の睡魔は立ち去らない。

 何度も体中を掻き毟り、特に腕を掻き毟るのだが、そこは日ごろから掻き毟っているのだろう、赤く爛(ただ)れていて、その赤みは私の心をきゅうと締め付けるようだった。

 彼は、肌を痛めつけた後、必ず指先のにおいを嗅いだ。爪の間に入り込んだ皮膚の粒子を甘く吸い込んで、また掻き毟る。掻き毟った回数とニオイを嗅いだ回数は同じで、それは枕詞のように親密に結びついているようだった。

 彼の嗅ぐ所作を意識しすぎたせいだろうか、車内の鳥小屋のニオイが次第に鋭くなっていくようだった。

 

 はやく降りたい。。。一刻も早く。。。

 

 結局、男もサラリーマンも私と同じ駅で降りた。

 毎朝同じ電車なのだとしたら、また彼らに会う可能性はある。そのときも鳥小屋のニオイがしたら、それは腕の痒みと結びついて私の心をきゅうと鳴かせるだろう。