蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

車内マナーを遵守せよ

  「男性は電車の座席で脚を開いてデカデカと座っており不快である」という話を見るが、まったくその通りである。

 恥ずかしい。

 同じ男性として、あれは恥ずかしい。

 

 どうして座席を二つ占めるほど開脚してしまうのか。それはきっと、男というものが、自分の「力」を誇示したい生き物だからだ。

 動物的にもそれは正しい佇まいなのだが、我々は理性ある人間、血の繋がりのない他者を思いやり、マナーを作り、それを守ることができる生き物である。

 あまり理性的ではない「かろうじて」人間の者は、動物的であるために「力」を誇示したく、あのような開脚をしてどうしようもない恥ずかしい動物に成り下がってしまうのではなかろうか。

 こう書いて、「成り下がる」という表現は動物に対して失礼だと思った。犬や猫や動物たちは「今」の限りない連続の刹那を生きており、過去にも未来にも縛られていないという点で人間よりもよっぽど偉い。羨ましい。

 

 話が逸れたけど、ともかくあのような開脚座席占領人間は周囲の人にも迷惑で、その迷惑の視線を向けられているにもかかわらず鈍感にも「誇示」し続けているさまは、見ていて恥ずかしいし、それ以上に憎たらしい。

 座らせろ。その脚を閉じて。

 

 開脚占領人間はしかし、ヤンキーの多くがそうであるにしても、意外と善良そうな気弱なサラリーマン男性にも多く見受けられる。

 実は昔、ヤンキーだったのだろうか。

 更生して社会生活を営むようになったものの、昔の血がまだ残っていて、あのような羞恥を晒してしまうのだろうか。

 これは長年、どの専門家にも謎とされてきた自然の神秘のひとつであったのだが、私はここ最近でこの謎を解明するに至った。

 我が身をもって、この謎を解明した。

 

 

 ↓

 

 

 ある日、私は残業を3時間超して、長い時間満員電車に押し詰められて、地元の最寄り駅付近でようやく座ることができた。

 全身は疲労感で包まれ、わけもなく死のうかな、と自暴自棄になっていた。

 目に入るなにもかもがムカついた。

 女、男、吊り革、広告、靴の汚れ、火曜日、シャツのボタン、ほつれた糸、親指、自分の影、蛍光灯、車内ディスプレイ、運転手、目に入るすべてに苛立ちを覚え、どうしてこんなもののためにおれは死ななければならんのかと泣きたくなった。私ではなく、世界が滅ぶべきだ。スマホ点字ブロックに叩きつけようかとさえ思った。

 そのくらい、世界を憎んでいた。

 疲労と空腹とは恐ろしいものである。人間をここまで醜悪にする。

 

 私はようやっと座ることができて、ぼーっとくだらないTwitterまとめサイトを眺めていた。

 ふと、周囲の人の視線が気になった。何見てんだよ。なんか文句あんのかよ。臭いかよ。一日働けばそりゃ臭いよ。殺すぞ。犯すぞ。

 そう鼻息荒くしたが、自分を顧みると、そこにはあの開脚座席占領男がいたのだ。

 私は、開脚座席占領男に成り果ててしまった。

 疲労、空腹、虚無感、その他もろもろのマイナスな感情に肉体を押しつぶされた私の座高は低くなり、背骨で座るようにして座席を占領してしまっていた。

 

 そう、善良そうなサラリーマンのうちマナーを守らない開脚人間は、たぶん、疲労からそうなってしまうのである。

 それは力の誇示などではなく、投げやりになった気持ちのせいで、疲労と空腹感がなにもかもをどうでもよくさせ、マナー不知(しらず)にさせてしまうのだ。

 マナーを守らないのではない。守れないのだ。

 

 だから、どうか皆さん、温かい目で、疲労する人を見てやってほしい。そうすれば私のように、その視線に気付いて姿勢を正す者もいるだろう。

 ああ、この人はひどく疲れているのだ。なにもかもに絶望して怒りを覚えているのだ。

 その慈悲深い情けをかけてやってほしい。とくに開脚人間が貧相で弱弱しい小市民的な人であるほど、すぐに憎むのを待ってほしい。

 

 

 だけど、そういう態度の人間は圧倒的に男が多いという点において、やっぱりどこか動物に戻りやすい心の弱さが男にはあるのだろう。

 そういうところが可愛いと思わんかね。

 思わんか。