仕事帰りの山手線で、見るからにヤバそうな男が乗ってきた。
髪の毛は何日も洗っていないようにボサボサで、肌は浅黒く汚れ、服も埃まみれで、両手に袋いっぱいのゴミを抱えている。浮浪者に準ずる有様だが、もっとヤバかったのは見た目ではなく、言動だ。
近くにいた無害の女の子に向かって「近寄んなブス!」などと吠えたり、後から乗ってきた人や近くで喋っているカップルに「乗ってくんな!」「来んな!」「うるせぇ!」と言葉を槍にし、目をぐらぐらと煮えたぎらせ、周囲を遠ざけていたのだ。
車内の空気は静まりかえって冷蔵庫よりも冷たく、みんながみんな、我関せずのフリをして、そこには頭のおかしい男ではなく大きめの観葉植物があるかのように振る舞った。見ちゃいけない。男の独り言以外に、喋る者など一人もいなかった。
やはり、大声と恐怖こそが人々を支配する要なのだ。虚しいことにはその男はどう見ても心の病のようで、彼が進んで孤独になる姿は、恐ろしいながらも、憐れみさえ抱くのだった。
見ちゃいけないが、つい見てしまう。
そんな中、一組の中年カップルが乗ってきた。
それがもう、「ちゃらんぽらん」って言葉が似つかわしいほどに酔っ払った男性と、素足にヒールを履き、長いトレンチコートに身を包んだ露出狂ルックの下品な女性だった。
男性は座席2.5個ぶんを占領してドカッと座り、女性は男性の股の間に足を滑り込ませて体をクネクネと捩らせながら、吊り革に掴まって電話をはじめた。男性はすぐ、いびきをかきはじめた。
無作法のお手本だ。
まだ19時台なのにこんなになってることある?
浮浪者風の男はカップルを許すまい。この車両、9号車はこの男のルールで走っているのだ。傍若無人は許されない。
しかし意外にも、男は吠えることはなかった。ブツブツと独り言をしているだけだった。
さすがの無作法に圧倒されたのかもしれない。
いや、よく見ていると、どうやら違う。
男はジッと中年カップルから目を離さず、今生の憎しみすべてを込めた呪いの言葉を小声で吐き続けていたのだ。
やはり、許していない。
ピリピリとした空気。一方で泥酔したカップル。カオスだ。
こうなったら、いつ襲いかかるかわからない。
一触即発。
ハブ対マングース。
毒を制すには毒。
車内は露出狂女の電話と、泥酔男のいびきと、呪詛しか聞こえなかった。最悪だった。
女はなおも電話をやめず、終わったと思ったらまたかけ直し、浮浪者男の呪詛にはまるで気に留めない。男性もお前の実家か?ってくらいデカいいびきで眠り込んでいる。コイツはいつ吐くかもしれない、静かなる恐怖の可能性をも秘めている。
東京はなんてスリリングなのだろう。
でもまぁ、結局、そのあととくになにも起こらなかった。
女は電話を続け、男は健やかに眠り、浮浪者男は呪い続ける。
中年カップルと私は降りる駅が同じだった。
男性は相当酔っていて、千鳥足でホームを縦横無尽に歩き(ホームドアがなければ線路内に転落していただろう)、一瞬、シャキッと直立したかと思えば、ヨタヨタと後ろによろけて自販機に激突したりしていた。女はそれを見て爆笑。もう電話はしていなかった。
なにも起こらなかった幸運もありつつ、バトルも見てみたかった気がする。
ヤバい奴ら同士が戦ったらどうなるのだろう。
案外、言葉を通じて仲良くなるかもしれない。
そのときは、私は実況リポーターを買って出よう。
本当のところ、あの車両にはヤバい奴が4人いたのかもしれなかった。