蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

すべては無常なのです

  昼に「開運!なんでも鑑定団」の再放送を見ていたら、会社の倉庫から日本の有名画家の水彩画らしきものが出てきたので鑑定よろしくお願いしますニャ~オ、ってふざけていたので、どうせ東山魁夷(ひがしやま かいい)だろと笑ってたら、ほんとうに東山魁夷だった。

 

 東山魁夷は去年(あるいは今年の初めか。忘れた)、国立新美術館でやっていた東山魁夷展で鑑賞していたく感動した、好きな画家の一人である。

 とても静かな風景画を描く人だ。

 日本、中国、そして北欧の風景を描いた作品だけど、その景色は一貫して静謐で生き物の気配がなく、人間の手つかずの自然であり、どこかの景色なんだけどどこでもない景色に見える。

 それら風景画を見ていると、涙が出そうになる。

 ああ、私は何も見えていなかったんだ。そう思う。

 どこにでもあって、どこにもない景色。画面に描き出された景色は、人々の心の深いところにある魂の原風景であるように私には思えた。

 

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   東山魁夷『残照』

 

 東山魁夷は若いころから将来を嘱望された画家であったけど、その生涯は画像の『残照』の景色のように山あり谷ありであった。

 徴兵、父親の死、倒産、家族の死。わずか4年の間に立ち直れないほどの苦難を強いられた。

 画家の道を諦めざるを得ないかもしれない状況において、しかし東山は筆を置かなかった。そこで描いたのが『残照』である。

 「人も自然もすべては無常なのだ」

 東山は千葉の山からこの景色を見てそう思い、この作品を描いた。

 なんでも鑑定団の受け売り知識だけど、昼に再放送を見ていた私はハイボールを啜りながら、また泣きそうになった。

 東山の絵はやっぱり魂の風景だ。アルコールが目に沁みた。

 無常、無常。

 

  ↓

 

 無常といえば、平家物語冒頭で有名な「諸行無常の響きあり」という文句だけど、ところで無常ってなんだろう。

 便利な時代だからインターネッツで調べよう。

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 ふぅん。

 

 aniyaの訳なんだぁ。

 よくわかった。

 

  ↓

 

 万物は常に変化するものだ、ということに気付いたのは高校生の頃だった。

 当時の私の精神状態はティーン・エイジャーの少年らしく生きることに悩み疲れていて、とても繊細でセンチメンタルで、欲しいのは愛か死だった、と言えれば格好良いのだが、なによりも欲しかったのは約束された将来偏差値だった。

 

 「私とはなにか?」という問いにひたすら悩み続けていた。

 

 その悩みの果てに気付いたのが、「世の中変わらないものは無い」ということだ。

 それは奇しくも授業でやった『平家物語』の冒頭の文句のことであった。なんだかんだ言って教科書はいろいろなことを教えてくれているのだ。

 

 そう、変わらないものは無い。

 すべての物は、時間がある限り、目に見えて、あるいは見えないところで、大きく、そして少しずつ、変化している。

 人間も文化も社会もそうだ。私たちは常に変化している。細胞の数にしたってそうだし、見た目だってそうだ。言葉の意味さえも変わってしまう。

 常、というものは無くて、私たちは時間の大河の流れの中で転がり続ける石ころくらい孤独なのだ。それはひどく心細くて寂しく恐ろしい。この流れの先には滝のように一度落ちたら昇ってこれない「死」があるのだろう。なにも寄り添ってはくれない。

 まるで救いがないじゃないか。

 もうだめだ。

 そう思ってしまいたくなるけど、はたしてこれは悪い捉え方で、善く捉えれば無常とは「希望」とも言い換えられる。

 いまどんなに悪いことがあっても、いつかは報われたり救われたり、終わる時が来る。変わらないものは無いし、ほんとうの確証のあるものなんてないけれど、ただ「変わらないことはない」というそれだけが事実として真実じゃないか。

 私たちは時間の大河の中で転がり摩耗していつかは滝壺へ落ちる石ころで、とても孤独だけれど、「みんなが孤独」という点において、決して孤独ではない。

 

 無常。

 この二文字はさまざまな観点を与えてくれる。

 良い時にも悪い時にもこの言葉を思い出して、自分を戒めたりあるいは希望を持ちたいものだ。

 涙は乾くし、日曜の昼下がりのハイボールは空になる時が必ず来る。

 月曜日は必ずやって来て出勤しなければならない。

 だけど、金曜の夜は必ずやって来る。