蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

祈り、働け。

 突に、じつに唐突に、祈りって人間にしかできないことなのだなぁと思った。

 そういうことに気付けると、人間は美しく、愛しい。

 

 祈りってそもそもなんだろう。

 そういうことを考えると文化人類学的な話になってきて複雑になってしまうのでよしておくとして、「祈り」とは「願い」とも「念」とも言えるけどそのどちらでもない観念だ。

 「念」よりも温かみがあって、「願い」よりも静かだ。

 祈りを捧げる相手は神さまだったり、身近な家族や恋人だったり、顔も知らないどこかの誰かだったり、とくに定まっていない。そこのところがおもしろい。

 祈りって不思議だ。

 

 考えるほど、祈りとは複雑な観念であることがわかる。

 祈りのキーワードは「安らぎ」だ。「安寧」、「平安」だ。祈る人の心の安寧であり、祈られる人の安寧を求めて、祈りは行われる。

 誰かのために、見知らぬ誰かのために、どこかの誰かと遠く遠く薄っすらと血の繋がっている家族のために、言葉を唱えて思いを馳せて、人生の時間のうちのごく一部だけども使うというのは尊いことだ。

 こうした無駄とも思える非合理的なことができるのが、人間の素晴らしいところだ。

 きっとコンピュータは「祈る」ことができないだろう。非合理なのは人間だけだから。

 プログラムすれば両手を合わせて神妙な面をすることはできるだろうけど、その心があるかはわからない。

 動物だって祈ることはできない。心はあっても、人間ほど非合理的な心ではないのだ。

 

 祈りを捧げる人は美しい。

 私も祈りを捧げたい。

 そう思って、目を閉じ、どこかの誰かを想った。

 みんなが幸せでありますように。あなたの不幸がおさまりますように。安らかでありますように。

 吊り革に掴まりながら目を閉じて祈りを捧げる私は美しかった。

 立ち寝のコツを掴みつつある。

 

 祈り、働け。そう言ったのは誰だったかしら。

 厳しい言葉だけど、祈りと労働が繋がれば幸福のための一助だと思う。

 

 私にとって、書くことが祈りになればいいと思う。

 すでに半分くらい書くことは祈りになっていて、心の安寧のために私は書いている。というかもはやブログを書かないとなんか不安になるのだ。

 ここ100日くらい毎日ブログを更新していて、しかも平均1200字以上書いているので、なんかすごいことになりつつある。

 今日は帰りが遅くなって、毎日更新の記録が止まりそうで怖くて、23時50分、慌てて書いている。間に合え、間に合え。

 

 もうすこし健康的なかたちで、書くことが祈りになればいいと思う。

 

 間に合った。。。