義姉がうちに遊びに来て、夕飯は餃子を作ろうということになった。
餃子は美味しいだけでなくその作る工程、すなわち「包む」段階において、やれ下手くそだのそっちだって言うほど上手じゃないだの意外と難しいねなどの会話が生まれて楽しく、また、みんなでひとつのものを作ることで自然団結感が育まれるため、義姉という私にとってあまり馴染みがないものの、しかしながら今後とも長い付き合いになる人とするには餃子作りはうってつけの作業であると言えよう。
まさかそれを狙って「餃子にしましょうよ」と言ったわけではなく、単に私が食べたかっただけなのだけど。
餃子といえば炒飯。ちょうど貰い物の蟹缶があったので、蟹炒飯と中華スープもあつらえよう。
キャベツとネギを刻み、豚ひき肉、生姜などと混ぜ合わせて餡を作る。義姉と妻に餃子を包ませている間に、スープ用のキノコをほぐして、炒飯用のネギを刻んでおく。忘れずに米を炊く。
うちにはフライパンがひとつしかないのでまず先に餃子にとりかかり、餃子を焼き終えたら余熱も逃げぬうちに炒飯へと移行する作戦だ。スープはその間に妻が作り、義姉には漫画でも読んでてもらう。
私もいくつか餃子を包んだが、あれは毎回やるたびに経験がリセットされるようで最初からうまく包めた試しがない。餡は多すぎても少なくてもよくなく、絶妙な塩梅をトライアンドエラーで学んでいくのだが次に作るときにはもう忘れてる。経験がすべてだと思わないことだな。餃子はそんな教訓を残してくれる。
餃子をフライパンに並べ、中火にしたり強火にしたり、ときには蓋をしたり、ごま油をかけてみたりして多くの時間を美味しくなるための祈りの時間に捧げる。
料理をする中ではお祈りの時間が一番大切だと思う。
火加減を気にしたり、無意味かもしれないけど酒を入れてみたり、塩ひとつまみだけ入れてみたり、こまめに掃除をするのが祈り、美味しくなれ!のおまじないなのだ。非科学的だけどでも丁寧な気持ちを持つことは大事だ。
この間に蟹炒飯の準備をする。
炊けた米をほぐしておき、刻んだネギ、溶き卵を準備しておく。炒飯は手際が命。準備にほとんどの神経を注ぐべきなのは、炒飯も狩りもプレゼンテーションも同じことだ。準備を怠ると破滅を招く。
蟹缶の汁、ありますね。あれは出汁になるので炒飯に入れたいけど米がベチャベチャになる可能性があるので、この場合汁だけを溶き卵に混ぜておきましょう。こうすることで卵の中に蟹の出汁が閉じ込められるというわけ。
このとき指に蟹汁がついちゃうんだけど、これは、舐めても怒られません。むしろ舐めなさい。美味しすぎるから。
しゃぶれ。
そうこうしているうちに餃子が焼きあがる。フライパンに皿をかぶせて火傷覚悟でひっくり返すと餃子の完成。妻のスープもできている。あとは炒飯だけだ。
フライパンにごま油を注ぐ。炒飯にしては多いんじゃないかな?大丈夫かな?ってくらい入れる。強火。フライパンからもうもうと煙が立ち上るのを見守る。
大丈夫なのこれ?ってくらい煙が立つまで静観する。熱を感じる。炒飯作りには常に不安がつきまとう。
蟹汁の入った溶き卵をフライパンに流し込み、すかさず米を入れ、ヘラで切るように混ぜ、米の一粒一粒に卵がコーティングされるよう祈りながらフライパンを揺らす。一見無意味に思えるこの祈りこそが料理にとって大事である。祈ろう。揺らそう。フライパン。
ネギを入れ、塩をざっと掴み入れ、胡椒をサッと振り、パラパラになってきたら醤油をフライパンの側面に垂らして香り付けをする。
この香り付けも祈りの一種だ。意味があるのかわからない。私はこの香り付けをうまくできた試しがない。
そんなこんなで完成。
はっきり言ってどれもめちゃくちゃ美味しかった。義姉も美味しいと言ってくれた。よかった。
特に炒飯。今回は店の味したね。蟹おそるべし。また貰えないかな。
妻以外の人に手料理を振る舞う経験はこれが初めてで、思いのほか緊張していたみたいで美味しいと言ってくれたときにはホッとした。
やれやれ、祈った甲斐があったというものだ。