蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

コタツ布団を買うしかなかった

 にはコタツがあり、コタツがあるからにはもちろんコタツ布団がある。

 私は今日、コタツ布団を買いに行った。

 どういうことか?

 簡単な話だ。今まで使っていたコタツ布団が使えなくなったのだ。

 

 どうして使えなくなったのだろう?

 去年まで使っていたコタツ布団は綺麗に折り畳まれ、綺麗にしまってあり、今年の冬もお世話になる予定だったのだが、いざ用意しようとしたところ、これは使えないね、と家族で意見が一致した。

 犬のにおいがしたからだ。

 

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 犬。

 うちには去年まで、二頭の犬がいた。

 去年の秋に一頭が亡くなり、クリスマスにもう一頭が亡くなった。おかげさまで暗澹な年末を過ごし、寒さは例年よりも凍てつき、パズルのピースが欠けたような、あるいは歯車が抜けた時計のような日々を過ごした。

 一頭が亡くなってから一年余りが過ぎて、ようやく彼らのいない生活にも慣れてきたところで冬になった。そろそろコタツを出さなければならない。そこで彼らのにおいとわずかな体毛が残ったコタツ布団を前にしてみたら、自分たちの心の穴がまだ埋まっていないことがわかった、それだけなのだ。すがりつきたくなるほど、それだけなのだ。

 

 喪ってから一年以上経つと、さすがに犬がいた頃の生活習慣も抜けてきて、たとえば朝方にリビングのドアを開けるときはそっと開けないと犬が吠えるから気をつけようだとか、帰宅してリビングのガラス戸から彼らが顔を覗かせているのをつい見てしまうだとか、ソファでくつろいで寝ている彼らの寝息の気配を感じ取ろうとか、そういう習慣というかクセは抜けた。

 半年以上そういったクセが抜けなくて、ついついそっとドアを開けたり、見てしまったり、もう無い寝息の気配を感じて振り返ったりしていた。そうするたびに空虚な気持ちになったものだった。

 だけど、ようやく心が彼らの死を受け入れて、犬と過ごした日々のクセはなくなった。

 死を完全に受け入れる。それはどういう感情のことなのか私には言葉にできない。髪の毛を毟りたくなる気持ちになる。そのへんの土を掘り返したくなる。ふとした時に泣きたくなる。ただ悲しいだけじゃない感情になる。

 

   ↓

 

 今年は激動の一年だった。

 父が亡くなり、地獄みたいな相続揉めがあり、私は大学を卒業し、会社勤めをはじめた。人生が瞬く間に変わっていった。

 楽しかったことよりも、つらかったことの方が鮮明に思い出せる。きつい一年だった。

 このきつい日々を乗り越えるために、犬たちがいなかったことがかなり堪えた。母も妹もそうだった。

 

 犬がいた頃は、なにか嫌なことがあったら私は犬に語り掛けていた。

 といっても言葉で語りかけるのではなく、抱きしめたり、腹のもふもふに顔をうずめてため息をついたり、変なにおいのする肉球を嗅いだり、おでこにキスをしたりしていた。

 「ねぇ、どう思う?」と唐突に言ってみる。

 すると犬は遠い目をして、ただ寄り添ってくれる。潰れた鼻(フレンチブルドッグという犬種だった)をブーブと鳴らしてなにやら助言や啓示を与えてくれた。相槌も打ってくれた。それだけで充分だった。なにもかも充分だった。

 犬に語り掛けるといえば、受験生の頃は犬に世界史の講釈をしていたなぁ。

 今日覚えたことを復習のつもりで順を追って説明したのだ。妹と母に言ってもウザがられるだけなので、犬に向かって講釈していた。犬は真面目に聞くふりをして寝ていた。

 おかげで世界史の偏差値は70オーバーだった。

 

 

 そんな幸せな日々を思い出して、犬のいないリビングのソファの冷たさに触れると、わき目もふらず泣きたくなる。

 子どもみたいに泣けたらどれだけいいだろう。今日は会社でこんなつらいことがあったんだ、どうしてこんなにつらい人生なんだ、おれはどうしたらいいんだ。……

 泣きたいだけじゃない。泣きたいのではない。ただ、会いたい。それだけで充分なのだ。

 家族みんながそうだ。

 

 私たちはまだ、犬のにおいと思い出の残ったコタツ布団をなにも思わずに使えるほど喪失感を埋めきれていないし、爽やかに語りきれるほど犬から心が離れていないし、気を緩ませるといつまでも泣いてしまうのだ。

 だからどうしても、新しいコタツ布団を買うしかなかった。

 

 まっさらなそれのやわらかな触り心地と新品のにおいを、彼らは永遠に知らない。

 

 忘れたいんじゃないんだよ。泣かないで抱きしめたいだけなんだ。