いよいよ年の瀬、2019年が終わり、2020年になってしまう。
2020年なんて永遠に来ないと思っていた。
来るんだ。
東京オリンピックということで、興奮の熱は日が近づくにつれて冷めつつあるけれど、楽しみである。オリンピック期間中の通勤を考えると今すぐ貧血になりそうだ。
さよなら2019年、よろしく2020年。
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ところで私は正月が大好きである。
一年の中でいちばん好きなのが正月だ。
うちは、面倒な親戚付き合いもないし、毎年どこかへ行くというイベントもないし、正月らしく書初めをするとか福笑いをするとか門松を焚く、鏡餅を投げるなどもしないし、近くでやっているのに箱根駅伝を見に行くこともしないし、初売りには行ったこともない、ただ近所の小さな寺へ初詣に行くくらいしかイベントがないので、始終家でごろごろすることになる。
最高だ。
朝からちびちび酒を飲みつつ、箱根駅伝を見るような見ないような、ぼーっとして、煮物を食べ、モチを食べ、また酒を飲んで、惰眠、風に当たりたかったら外に出て深呼吸でもして正月の空気を肺の隅々に行き渡らせる。
最高じゃないか。
と、こう書いたら「正月じゃなくてもできるじゃんね」と言われそうだけど、乏しい想像力をもう少し働かせて物を言うんだね。たわけちゃん。
たしかに、これらの「怠惰」は平常の日曜日などでもできること。なんなら近いことを私はやっているのだが、平常とちがい正月は単に休みなのではなく、周りの空気が違う、自分の心持が違う。
平常の日曜日、ただの休日に先述のような「怠惰」をやると、はたしてその夜は心がしんどくなる。
「ああ、ただ酒を飲んで日曜日が、休日が終わってしまった。また時間を無駄にしてしまった。休日にやりたかったことが何ひとつできなかった。資格の勉強をしなかった。小説を書かなかった。絵筆を握らなかった。チェンバロの練習をしなかった。マキャベリを読まなかった。天体観測をしなかった。時間を無為に過ごした。限られた人生の時間を……」
自分の心を裏切るかのような罪悪感に襲われる。
取り返しのつかないことをしてしまった感。なぜ自分は生きているの感。暗く大きな森のような感情に足をすくわれると底無しだ。
平常の日曜日をあまりにも怠惰に過ごすと、このような危険性がある。
けれど、正月は違う。
いくら怠惰に過ごして、一日酒を飲んで寝て食べてまた寝ても、「正月だからな」の一言で暗い森は焼き払われる。
「正月だからこそだよな」なんて言えば、焼き払われた暗黒の森に新たに明るく木洩れ日の差す林が立ち現れて、こぐまが草原を転がり、リスがどんぐりを頬に詰め、小鳥たちが求愛のダンスを踊り、名も知らぬ草が小さな花を咲かせ、木の実が実りまくる。めちゃくちゃだけどハッピーだ。
そう。
つまり、正月に私は「赦される」のだ。
正月は「赦し」の日なのである。
「赦し」の空気がそこかしこにWi-Fiよりも飛び交っている。
こうなるとむしろ正月にのんびりしていないと怒られそうな気すらする。全人類正月は働くのをやめよう。サービス業なんてとくにしなくていい。
正月に駅伝するなんて勤勉だよなぁと思いながら男子大学生の苦しそうな顔をサカナに呑む酒はすこぶる美味い。
三が日くらいまで盛大に赦されるので、思いきりダラダラしよう今年も。
だから私は正月が好きなのだ。
一年の計は元旦にあり。
だれだこんな言葉を考えたのは。あんまりじゃないか。
だから私は毎年怠惰な一年を過ごすことになるのだろうか。