最近は月曜日のことがあまり憎くなくなってきた。
「あまり憎くなくなってきた」だけであって、憎いことに変わりはない。「月曜日」はこの世にある概念の中で「死」の次に忌むべきものである。
ただ最近はその憎しみの度合いがやや薄れて、「死」と距離を離した感じがするのだ。
これまで日曜日の夜は憂鬱に支配されて、四方の壁がどんどん迫ってくるような錯覚を覚え神経衰弱に陥り、うううと唸って、酒、あるいはそれ以上のものを過剰に欲するなどして前後不覚にならなければ夜を乗り越えることができなかった。
神はなぜ日曜日だけを安息日としたのだろう。本気になれば一日で世界くらい構築できたはずだ。
一日ではできないにしても、三日で成すことは可能だったろう。神はサボったのだ。要するに。
このように神すらも恨み、いっそ起これハルマゲドン、と喚いては記憶の定かではないうちに眠り、粛々と月曜の朝を迎えたものだった。
しかし最近はそんなことがない。
日曜の夜は騒がず、テレビを見て、過去の私のようにうずくまって嘆いている恋人に笑い、少しの酒を塩で呑み、本を数ページ読んで、体を温かくして眠るなどしている。
いったいどんな心変わりがあったのだろうか?
「最近の日曜は落ち着いてるね。穏やかだね」と恋人にも言われる。
日曜の夜は朗らかな気持ちでさえある。
どんな心境の変化があったのだろうか?
実際のところは、変化というよりか、現実逃避に近いかもしれない。
そしてこの変化は決して良い方向性のものではないのだ。
実は、日曜の夜を日曜の夜として認識できなくなってしまったのだ。
なんか、よくわからなくなってしまうのだ。
あれだけ心待ちにしていた土日が終わってしまうことがうまく飲み込めず、こんなにもあっさり終わってしまうのかと現実を受け止めきれなくて、心が日曜日の外に置いてけぼりになっているのだ。
だから穏やかな心である、というのではなくて、正確には「心を失くしている」と言った方がいいだろう。
心を失くすと人は温厚になりアルカイック・スマイルを浮かべて一切の迷いを断つのだ。
よくわからなくなっちゃってる私は、心を失っているので、憂鬱にもならないし、悲嘆にも暮れない。そのかわり喜びも無く、なにを食べても乾いた樹皮の味しかしない。
よくわからないうちに風呂に入り、よくわからないまま「本当に明日は月曜日なのかな?……まぁ寝て醒めればわかるか」などと危機感も持たず、あたたかい布団に眠るのだ。
そして翌朝月曜日、ようやく私は絶望する。
呼吸が苦しくなる。標高5000mにいるような気がする。地表において高山病になる。顔が青い。下山した方がいい。
だが下山はできない。ここは地上。皮肉なくらい晴れている月曜日。星座占いは3位。ラッキーアイテムは厚手の靴下。今週も元気に頑張りましょう。くそったれ。